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JASジャーナル目次
2024winter
個人会員に聞く!
第3回 鶴島克明氏
インタビュアー 末永信一(専務理事)
個人会員に聞く!今回は第三弾。インタビューさせていただいている私・末永が、この取材を大変楽しんでいる次第です。今回ご登場いただくのは、ソニーでCTOまで務められた鶴島克明さん。
末永が30代前半だった頃に所属していた開発研究所(以下、開研)の所長だったのが、鶴島さんでした。まだ係長だった私には、上司というにはおこがましいほど上層部の方で、半年に一度、直接業務報告を行うという緊張する場面もありましたが、優しい語り掛けをしていただける方で、当時から大変尊敬申し上げておりました。今回のインタビューもあの緊張感を思い出しながら(笑)、でも楽しいお話をたくさん聞かせていただきました。
インタビューは鶴島さんのお宅でさせていただきました。ご参考までに、こちらの記事もご覧ください。
https://www.jas-audio.or.jp/journal-pdf/2016/03/201603_057-059.pdf
鶴島邸訪問
末永)鶴島さん、お久しぶりです!
鶴島)お~、久しぶり!きみ、ずいぶん太ったんじゃないか?
末永)あははは、そうですかね(笑)。
鶴島)もっとシュっとしたイメージだったぞ。
末永)お恥ずかしい限りで。鶴島さんもお元気そうですね。コロナ禍は、大変だったんじゃないですか?
鶴島)え、どうして?
末永)外に出られなかったり…。
鶴島)ああ、あの頃はゴルフばっかり行ってたよ。
末永)そうなんですか。
鶴島)ゴルフ場が一番安全だからね。
末永)そうかもしれませんね。今もゴルフにはよく行かれるんですか?
鶴島)ほとんど毎週。昨日も伊豆に行ってきたばかりだよ。
末永)いや~お元気そうでなによりです。今日はそんなお忙しそうな中、お時間を頂きまして、ありがとうございます。
鶴島)で、何の話を聞きたいの?
末永)最近、JASジャーナルで、個人会員の皆さんに話を聞いて回るということをしているんです。先の総会の委任状のメモ欄に、鶴島さんから「70周年おめでとうございます。井深さんのことなど思い出して懐かしんでいました」とお祝いのメッセージを頂きまして、オーディオ協会の古い話を紐解く上でも、是非いろんなお話を伺いたいなと思って今日は参りました。
鶴島)ああそうかぁ、まあちょっと音楽を聴こうか。きみは何を聴くんだ?
末永)ちょうどここにホテルカリフォルニアのSACDがありますので、これを聴かせてもらってもいいですか?
(ホテルカリフォルニアを再生)
鶴島)この部屋を作る時に、大建工業の人に来てもらって、部屋の残響時間とか設定してもらってね。この辺の壁に埋め込まれている板は、調音パネルなんだ。
末永)非常に心地いいと言いますか、聴きやすい適度な響きのあるお部屋ですね。以前、森芳久さんが寄稿されていたこのお部屋の記事を事前に読ませていただきましたので、今まさにここに来られて感激です。
鶴島)まあ、家を建てるというのは、普通は一生に一度だけだから、どうするべきかいろいろ考えたよ。地下に部屋を作ると、防音という点ではいいんだが、どうしても抜けが悪くなるしね。この家を建てた頃はこの辺は田舎だったから、大きな音を出しても問題になるところではなかったんだ(笑)。外壁はレンガなんだが、内壁との間に20cmのセルロールファイバーの層があるんだ。
末永)ああだから、デッドでもなく、といってライブでもない空間なんですね。
ソニーに入社した頃
鶴島)そうか、じゃあ何から話そうかなぁ…。
末永)鶴島さんがソニーに入社されたのは、何年ですか?
鶴島)1966年。入社面接は真ん中に盛田さん(当時副社長)、右に井深さん(当時社長)、左に大賀さん(1982年から社長)が座られていて、井深さんも盛田さんも黙ってるわけ。大賀さんが一人しゃべって、どんなカートリッジを使っているのかね?と聞くから、オーディオテクニカのAT-5を使っていると答えたら、ムービングマグネットのあれはいいよね!という調子で、そんな他愛もない話ばかりして終わっちゃった。
末永)じゃあ、すでに採用することは決まっていたんでしょ。
鶴島)まだ当時のソニーは小さな会社で、ソニーに合格したと教授に伝えたら、ソニーなんか行っちゃダメだとか言われてさ。大卒出に半田付けなんかやらせる会社だぞ…なんてことを言うんだよ。井深さんに共鳴して早稲田に入ったのに、ソニーに行けないんじゃ意味ないから、困っちゃってさぁ。
末永)あらまぁ、そうでしたか。ま、それでソニーに入られて、仕事は初めからオーディオだったんですか?
鶴島)最初は、MOS(金属酸化膜半導体)の研究部隊に配属されたんだけど、3日後にオーディオ事業部に異動だ!って。
末永)え~~、そりゃまたどうして?
鶴島)大賀さんからの指示だったんだろうね、今思えば。
末永)よほど大賀さんに気に入られたんですね。あのテクニカの彼はどこに配属されたんだ?と。目が届く小ささだったんでしょう。それでオーディオ事業部で何の仕事をされたんですか?
鶴島)まずはアンプを設計していた。その頃は、ようやくシリコントランジスタが使えるようになった頃で、まだオペアンプなんかなくて、“オールシリコントランジスタ”という言葉が宣伝に使われていたくらいなんだからね。
末永)その頃は、ソニーが日本で一番トランジスタの先頭を行っていたんですよね。
鶴島)大学の研究室と違ってさあ、企業というのは、実験室に部品が豊富にあって、使いたい放題じゃないか。トランジスタも。もう目が輝いちゃってなぁ。やりたいことをやらせてもらって、給料までもらえたんだから、楽しかったなぁ。
末永)そうでしたか。
鶴島)当時のオーディオ事業部というのは、なんでもありの職場でね、アンプやスピーカーだけじゃなくて、いろんなことやっていた。それはそれは楽しかったよ。でもまあ、楽しいことばかりが続くわけもなく、ある時、社長だった盛田さんが「今、ソニーは荒天準備中です」とか言い出して、「会社が潰れるかもしれないので、辞めたい人は辞めなさい。他に自分に合う仕事があると思う人にはチャンスです」ということを言い出したんだよ。
末永)昔から、浮き沈みが激しい会社だったんですねぇ。
CDを開発された頃
末永)ぜひCDを開発された頃の話をお聞きしたいです。
鶴島)1982年10月1日にCDが発売されるんだが、1978年の秋にPhilipsが一緒にCDをやろうと言ってきたわけだ。それからフォーマットを作り、製品を作るのだけど、世の中に無いもの、まったく新しいものを作るんだから、それは大変だった。発売日だけは先に決められてね。
末永)本当に何も無いところから試作も始められたのですものね。
鶴島)最初にPhilipsが試作機を持ってきた時は、ガスレーザーだったの。分かる?
末永)はい、蛍光灯みたいな丸い棒状の先端からレーザーが出るものですね。
鶴島)そうそう。それにプッシュプルフーコー法といって、棒の先についた光学ブロック全体で、トラッキングサーボを掛けるような仕組みだったんだ。
末永)ずいぶん原始的な感じですね。そんな重量じゃ、いかにもサーボを掛けるのが大変そうです
鶴島)これじゃ製品の小型化ができないということで、ソニーではまだ研究中の半導体レーザーを、実用化寸前まで持ってきていたシャープさんを訪ねて、売ってください!とお願いしに行ったし、ソニーにはレンズを作る技術がなかったから、オリンパスさんに作ってもらったりしていたんだ。
末永)非球面レンズを作るところからなんですね。
鶴島)非球面レンズとはプラスチックレンズが登場した後の話だね。最初は一眼レフカメラのレンズのように5枚のレンズを組み合わせてNA(開口数)を小さくするところから始めて、なんとかそのうちに2枚のレンズになるようにガラスを加工して作ってもらったんだけど、1組作るのに、すごい時間が掛かるもので、こんなんじゃ大量生産できない。
末永)そうでしょうね。
鶴島)だからその後、プラスチックレンズが出来て、本当に大量生産ができて材料費が安くなったのは革新的だったね。
末永)話を聞いていて、ワクワクしますね。
鶴島)それと並行して、2軸方式の光学ブロック[ピックアップ]を作ったんだ。これは対物レンズがフォーカス方向とトラッキング方向の2軸に動く仕組みを私が考えてね、他の人が名付けたんだけど、「ツルス」って呼ばれたんだ。
末永)まさに、今にもつながる光ディスク技術の基礎を作られたわけですね。
ツルス[2軸方式の光学ブロック]の説明図(JASジャーナル1984年5月号より)
鶴島)1981年にザルツブルグでカラヤンにCDを最初に聞いてもらっている有名な写真があるんだが、その頃はまだ半導体の回路が完成してなくて、テーブルの下にたくさん基板を隠して、デモをしていたんだから。
末永)私も何度かそういう試作機を作って、台ごと海外に運んでデモしたことありますが、動くかどうかドキドキもので、大変ですよね。
鶴島)まあ、大賀さんのおかげで、カラヤンにCDの素晴らしさを理解してもらって、音楽業界においてもCDの価値が徐々に高まったんだよね。
末永)本当に大事業だったことが分かります。それで、1982年の発売に至るのですが、当時のオーディオフェアには5日間で100万人の来場者があったとのことですから、若い人たちの憧れの商品となったわけですね。
連日長蛇の列の1982年のオーディオフェア(JASジャーナル1982年12月号より)
鶴島)その頃は、発売前のまだ開発中の試作品を参考出品という形でオーディオフェアに展示するということをよくやっていたんだけど、最近はそういうことは誰もしないね。
末永)確かに、晴海でオーディオフェアが行われていた頃まで、DATなんかもそうでしたが、参考出品という形での展示がたくさん見られましたね。
鶴島)みんながそういうのをやったら、展示会の人気も高まるだろうになぁ。
末永)出展社の皆さんに提案してみます。
末永の鶴島さんとの出会い
末永)私は1990年に中途入社でソニーに入りまして、その頃ソニーでは毎週社内報が配られていまして、入社してしばらくしてですが、オーディオの開発本部長だった鶴島さんが社内報に寄稿されていましてね、何の話題だったかは忘れましたが、「クルマに例えて言うならば、BenzとJaguarの違いみたいなもので…」ということを書かれていて、要は安定感が求められる商品と遊び心が求められる商品というものがあるといった説明だったかと思うわけですが、その遊び心の例え話に、Jaguarかぁ!と。ソニーの社員ならJaguarくらい乗って、この例えが分からないと駄目なんだ!と驚嘆した記憶があるんです。
鶴島)ほお、そんなこと書いた?
末永)ええ、遊び心もJaguarクラスじゃないと!と感銘を受けましてね(笑)。それで、その数年後に、開研に異動することになりまして、あの鶴島さんの下になるんだと、ワクワクして、うれしかったんですよ。
鶴島)ああ、そお。
末永)全体会同でお話をされる鶴島さんは、<例えて言うならば>と時々おっしゃることがありましてね。
鶴島)ああ、確かにそれは私の口癖かもしれない。よく覚えてたねぇ!(笑)
末永)いやー、さすがに30年以上前の話ですから、内容まで覚えていることはごくわずかですが、インパクトのあるお話が多かったですよ。
鶴島)(ニコニコして)そうかぁ、例えて言わないとさぁ、伝わらないだろう。大事なことなんだよ、伝わるかどうかというのは。
末永)そうですね。
鶴島)ところで、きみは何をやっていたんだっけ?
末永)本来はDVDの記録フォーマットを検討するというミッションだったんですが、メディアの材料の完成もまだまだ先だってことで、ドライブを設計するにしても情報が少なすぎるし、じゃあHDDを使って仮想ドライブを作ってみるか…、という調子で試作をやっていたら、テレビ事業部から、その回路をそのまま使わせてくれと声が掛かりまして、ほんのちょっとの時間分を巻き戻しできるテレビなんてものを試作していましたね。
鶴島)ああ、やっていたねぇ、覚えているよ。
末永)それで、商品化のGoサインをもらうために、朝早くに当時社長になったばかりの出井さんにデモをしたら、なんだかよく分からないコメントをされまして、話がうやむやになって終わったんです。今にして思えば、インターネットで動画が流れてくるような時代が来るんだから、そういうことを考えておけ!とおっしゃりたかったんだろうなと思うのですよね。
鶴島)あの頃、出井さんは、そういう話をよく良くしていたものなぁ。
末永)ま、テレビの話は流れましたが、他にも当時、ソニーがスカパーに出資していたこともあって、次世代放送の在り方の研究が始まり、チューナーにHDDを搭載した蓄積型放送なんて構想を検討したり、IEEE1394でホームネットワークを組むプロジェクトだとか、色んなところに絡んでは出資していただいて、バジェットが溢れるほどあったので、ソリューションを探しによくシリコンバレーに出張に行かせていただいたし、グラフィックスの優れたワークステーションを買って、ユーザーインターフェースの研究をしたり、やりたい放題、ほんと楽しくやらせていただきました。
鶴島)懐かしいなぁ。
末永)最初の頃の話ですが、あこがれを持って入れていただいた開研だったのに、200人くらいに組織が膨らんだとかで、鶴島さんが「目が届く範囲にしたいので、50人に減らしますから、これから皆さんの仕事場を自分の目で見て回ります!」とおっしゃって、まわりを見ると私は200番目に近い方だなぁと思ったので、あっという間にクビかぁ、なんてガッカリしていたんですが。
鶴島)それでどうなった?
末永)巡回に来られました時に、デモをさせていただいたんですが、時々静かにうなずかれて、リモコンを貸しなさいと自分でちょっと触ってみて、「また半年後に見せてもらうから、どうなっているか楽しみにしているよ!」と一言おっしゃって立ち上がられたんです。やった~!これならなんとか50番目くらいにはランキングされたかな?なんて喜んだものです。
鶴島)ああ、そういう巡回をよくやっていたねぇ。
末永)半年に一度だけ、クビにならないかとドキドキしながら緊張していましたが、他の日はのびのびやってました(笑)。
鶴島)それで1998年に開研が解散することになった後は、どうしたのかね?
末永)私はDVD事業部に異動しまして、今一度記録フォーマットを検討することになったのですが、ブルーの半導体レーザーの量産化の見込みがあるというので、お前たちはDVDの検討よりも、ブルーで新たなフォーマットを開発して覇権を取りに行け!と当時の井原副社長から指示が出ましてね。そうは言っても、またメディアもなければ何もないわけです。井原さんはブルーオーシャンに漕ぎだすぞ!とか元気に吠えていたんですけど、私らは気持ちがブルーですよ(笑)。
鶴島)ハッハッハ!
末永)で、メディアが出来るまで数年どうする?と、また同じ状況になってしまいまして、今度は事業部なだけに、近い将来お金になること考えないと仕事として認めてもらえないもので、だったらHDDのままで商品化しちゃえ!という話になりましてね、「Clip-On」というハードディスクレコーダーを作ることになりました。
鶴島)そうだったのか。
末永)実はこの時点でBSデジタル放送の開始が見えてきていたので、DVDのフォーマットではなく、デジタル放送のフォーマットに合わせて作ろうということで、これがブルーレイの論理フォーマットの基礎検討になったのが、その後の展開においても非常に大きいんです。そんな流れで、ブルーレイレコーダーの商品化プロジェクトマネージャーまで、やらせていただくことになりました。
鶴島)それじゃ、やっていたことがつながったんだね。
末永)はい、そうなんです。今日は、そういうご報告もしたかったんです。
鶴島)それは良かった!頑張ったんだなぁ。
末永)ありがとうございます。その後、2013年にソニーがハイレゾオーディオを全面展開するという時に、オーディオの技術戦略を拝命しまして、渉外や知財も私がカバーすることになったもので、オーディオ協会にも関わり、協会のハイレゾWGで主査をやらせていただきまして、それが縁で今があるようなものです。
井深さんの思い出
末永)オーディオ協会の2代目の会長でもあった井深さんについてお話をお聞きしたいのですが、オーディオ協会は、昨年(2022年)に創立70周年を迎えたのですが、70年前に、いったい何があってオーディオ協会が出来たのかを調べていたのですよ。
鶴島)ほお、なるほど。
末永)1952年に、GHQが帰るという年ですが、ようやく日本人が海外に出掛けて良いという時代になり、井深さんが市場調査に渡米されまして、その際にシカゴで開催されたオーディオフェアで初めてステレオ再生を体験されて、いたく感動されたのだそうです。当時のラジオやレコードはまだモノラルですからね。その立体感に驚かれたそうなんですよ。
鶴島)へえ、そういうことがあったのか。
末永)その時に、これは左右にマイクを2本立てて、テープレコーダーを2トラックにすればいいと直感されたそうで、井深さんの右腕だった木原さんに、すぐに電報を打たれて、ソニーで実験を開始したそうなんです。それを井深さんの帰国後に、オーディオ協会の初代会長になる中島健蔵さんを始め、オーディオ業界の皆さんに披露されたそうで、その頃、これからのオーディオについてみんなで勉強しようと、日本にもAESみたいな団体を作ろうといった話があったらしく、これがオーディオ協会の始まりなんです。
鶴島)それは知らなかったなぁ。この頃、私もまだ学生だったから毎週日曜日にラジオを2台並べて、NHKラジオ第一放送と第二放送とを使ったステレオ放送を大いに楽しんでいたね。日曜音楽堂とか言ったかな。
末永)立体音楽堂ですね。その原点が、第1回の全日本オーディオフェアの実験放送だったそうですよ。この米国出張では、井深さんがウエスタン・エレクトリックからトランジスタのライセンスの話を持って帰ってきたという有名なストーリーがあるのですが、ステレオ再生を持って帰ってきたということは、ソニーの歴史を掲示してあるホームページにもまったく書いてないんです。
鶴島)ステレオの話は私も今、初めて知った。テレビやビデオが優先の体制だったからね~。しかし、井深さんは心からオーディオと音楽を愛しておられたと思うね。他の事業ジャンルとは格が違うんだよ。
末永)私もこの話を知った時に驚きが止まらなかったので、井深さんが関わられたオーディオ協会に、私も関わることになったことに、責任感を感じた次第です。
鶴島)オーディオ協会は、そういうところから始まったのか。面白いなぁ!それは頑張らないとなぁ。
末永)はい、そういうことから始まった団体なので、新しい技術を啓発して、エンジニアだけでなく、たくさんの人たちに理解してもらえるように、いろいろやっていかないといけないなぁと思っています。
鶴島)そうだなぁ、まだまだやることはいっぱいありそうだなぁ。頑張ってよ!
末永)ええ、井深さんのパッションをしっかりと引き継いでいきたいと思います。
鶴島)井深さんは、本当に面白い人でね。いろんなことを思いつくのが早いんだが、飽きるのも早いんだな。だから、何々をやりなさい!と人にやらせておいて、出来た頃にはもう他のことを考えている。だから、やらせたことも忘れて、きみ何をやってるんだ!?みたいなことが起きるんだよ。まあ仕事には本当に厳しい人だったね。
末永)なにか思い出されるエピソードとかありますか?
鶴島)しょっちゅう職場をうろうろして、きみ何をやっているんだ?と話し掛けてきたりしていたし、昔は距離が近かったというのかな。直接、何々をやりなさい!とよく言われたものだよ。昔は仕事に夢中で、そのまま職場に泊まったりすることがあったんだが、夜中に作業机で仕事をしていると、背後でジージーと音がするんで振り返ると、井深さんが誰かの事務机に置いてあった電気カミソリで髭を剃っていたんだ。その頃まだ電気カミソリが珍しかったので、新しいもの好きな井深さんの興味を引いたのかなと思ったよ(笑)。
末永)いいお話ですねぇ。私が入社した頃は、お見掛けすることはあっても、そういうお話は先輩方からしか聞いたことがありません。
鶴島)あと、ある時、ヨーロッパから来られた演奏家のお客様に井深さんの箱根の別荘でデモをすることになってね。デモが終わって片付けて帰ろうとしたら、井深さんが窓から見える渋滞の様子を見せてね、食事していきなさいとおっしゃるのさ。そうすると麻雀が始まるんだ。井深さんは麻雀が好きでなぁ。
末永)そうなんですか、井深さんが麻雀好きだったなんて、初めて知りました。井深さんのプライベートな面を、あまりお聞きしたことがなかったので、それは楽しいお話が聞けました。
鶴島)まあ、せっかくだから、もうちょっと音楽を聴いていきなさい。
末永)ありがとうございます。
鶴島さんからのメッセージ
末永)最後に、オーディオ協会ないしはオーディオ業界に対して、メッセージを頂きたいと思います。
鶴島)みんな、いい音をたくさん聴いて長生きしてください。
末永)それは、いい音を聴ける製品をたくさん出して欲しいということも含めて、ですね、きっと(笑)。
鶴島)そういうことだな(笑)。いい音をたくさん聴いて生活すると長生きするんだよ。演奏家って長生きしているんだよ。だから、みんなが楽しく長生きできるように、いい音が聴ける製品を作っていって欲しいなぁ。
末永)それは大事ですね。
鶴島)そうそう、今の会長さんに会ったことがないんだ。
末永)小川理子さんですか?
鶴島)プロのピアニストでもあるんだよね。
末永)この前の「音の日」に、協会創立70周年なのでと、ジャズのスタンダードを数曲弾いてもらったんですよ。
鶴島)こういう方が会長をやってくれることはいいことだよね。
末永)はい、大変聡明な方ですし、一緒に未来を考えていこう!と言っていただいているので、本当に仕事がしやすいです。
鶴島)そうか、それは是非お会いしたいね。昔のオーディオ協会の委員の一人としてね!
末永)承知しました、ご挨拶していただけるようにしますね。
鶴島)楽しみにしているよ。
末永)今日は、長い時間になりましたが、たくさんお話を聞かせていただき、ありがとうございました。もうめちゃくちゃうれしかったです。
鶴島)こんな話で良かったのかい?
末永)はい、大丈夫です!
最後に
今回のインタビューでは、CDの開発の苦労話を中心に、オーディオ協会の会友である鶴島さんのお人柄がご紹介できたかと思います。こういう先輩たちのおかげで日本の工業力が世界を席巻したり、オーディオそのものが一大産業に発展していったんだろうなぁと改めて感じました。
鶴島さんはソニーを退職後、東京理科大学でMOT(Management of Technology)の教授として人材育成にも貢献されました。ソニーにおいて、研究開発や製品化をする際に考えていたことや、物作りのためのマネジメント、プロセスなどについて教えられていたそうで、ソニーで実体験をしてきた私にとっては共感するお話がたくさんあり、まさに鶴島門下生としてキャリアを積んできた私の一時代を思い起こすストーリーがたくさんありました。
70歳からピアノを始められたそうで、ゴルフも毎週のようにされているそうですし、ますますお元気な姿を拝見し、大変うれしい時間でした。機会を作って、またお話を伺いに行きたいと思いました。本当にありがとうございました。
個人会員プロフィール
- 鶴島克明(つるしま かつあき)
1942年、鹿児島県生まれ
1966年、ソニー株式会社入社
オーディオ開発本部長、チーフテクノロジーオフィサー(CTO)、執行役員専務等を歴任。
2006年、藍綬褒章を受章
筆者プロフィール
- 末永信一(すえなが しんいち)
1960年、福岡市生まれ
2019年、ソニー株式会社退社
2020年6月より、日本オーディオ協会専務理事に就任