2023autumn

ソニー「MDR-MV1」と「360VME」が拓くヘッドホンによる立体音響の未来

フリーライター 有路昇(個人会員)

ヘッドホンから音が出ているのか、スタジオのスピーカーが鳴っているのか、判別できない!

ソニーが2023年5月中旬に発売した、背面開放型モニターヘッドホン「MDR-MV1」(ソニーストア販売価格59,400円)。立体音響などの制作に関わるクリエイター向けとされているものの、リスニング用途としても上質だとオーディオファンからも注目を集めているヘッドホンです。


MDR-MV1。ハウジングには軽量で強度の高いアルミ合金が使用されています

OTOTEN2023のイベント「最新ビルボードからアニソンまで!3時間ぶっ通しリクエスト大会!」を経て、10年以上休止していたオーディオを再び始めようと思い立った筆者もMDR-MV1を購入。一瞬で気に入ってしまい、好きな音楽に浸る生活が始まりました。そんな折、日本オーディオ協会の秋山真くんから「MDR-MV1はただ聞くだけじゃもったいないんだよ。立体音響スタジオの音場をヘッドホンで高精度に再現する技術『360 Virtual Mixing Environment(サンロクマル・バーチャル・ミキシング・エンバイロンメント)(以下、360VME)』と組み合わせると、スタジオの音がMDR-MV1で聞けるようになるらしいよ」という話が…。さらに「気になるなら取材に行く?」との提案があり、ソニーと360VMEの測定スタジオであるMIL Studioを取材することに!本当にヘッドホンからスタジオレベルのサウンドが出るの?と正直疑っていたのですが、結論から言えば、「ヘッドホンから音が出ているのか、スタジオのスピーカーが鳴っているのか、判別できない!」という不思議な体験ができました。その模様をレポートします。

立体音響の楽曲制作をサポートしたいという思いで開発がスタート

まずはソニーの研究開発組織「技術開発研究所」を訪問しました。


(写真右から)ソニー株式会社 パーソナルエンタテインメント事業部 プロフェッショナルソリューション事業室の松尾伴大さん、技術開発研究所 空間音響技術開発部の新免真己さん、沖本越さん、中川亨さん、佐藤裕太さんにお話を伺いました


取材はソニー内の7.1.2chを再生可能な視聴室にて行われました。使われているスピーカーはWilson Audioの「WATT/Puppy」という豪華な仕様!なお、360VMEはこの視聴環境で開発が進められていたそうです

はじめにMDR-MV1の特徴を簡単に振り返っておきましょう。MDR-MV1は、5Hz~80kHzまでの超広帯域再生や広ダイナミックレンジ再生を実現する、専用開発の40mm径ドライバーユニットを搭載。背面開放型音響構造を採用し、立体的な音響空間での正確な音像定位による優れた音楽表現が可能です。さらに、長時間使用しても聴き疲れしない自然な音色や快適な装着性を実現しています。


MDR-MV1は、ドライバーユニットの後方を通気抵抗のない構造としていますが、前方に通気抵抗を持たせて音質を調整しています。それもあり、構造としては背面開放型という呼び方を採用しているとのこと

これまでのソニーのスタジオモニターヘッドホンといえば、MDR-CD900ST、MDR-7506、MDR-M1STと密閉型でしたが、MDR-MV1は初の背面開放型に。より広い音場感が出せる背面開放型を採用し、立体的な空間表現に優れたヘッドホンを目指したのには理由がありました。


360VMEの開発を推進してきた沖本さん

「ソニーでは『音楽クリエーションの変化に技術の力で寄り添い続ける』というビジョンを掲げる中、2021年にパーソナルエンタテインメント事業部の中にプロ用のレコーディングマイクやモニターヘッドホンを受け持つプロフェッショナルソリューションのチームが出来ました。その背景には、音楽制作は大規模スタジオでの収録からホームスタジオでの収録へと移り変わってきており、音楽自体の供給もレーベルからだけではなく個人配信が増えてきたことがあります。ハイレゾ音源が普及し、配信サービスの高音質化が進む中で、360 Reality Audio(サンロクマル・リアリティオーディオ)などの立体音響にも注目が集まるようにもなりました。しかしながら、2021年の当時から現在に至るまで、立体音響に適していることを強く謳うモニターヘッドホンは発売されていませんでした。そこでソニーは、ヘッドホンでの立体音響制作を高い次元で可能とし、ステレオ音源制作でも求められる空間表現と超広帯域再生を実現するヘッドホンを世に送り出すことで、クリエイターの創作活動に貢献できるのではと考え、MDR-MV1の開発を進めたのです」(松尾さん)


MDR-MV1の開発に携わった松尾さん

「ソニーとしては、より臨場感ある音楽を楽しんで頂きたく、360 Reality Audioのような立体音響を推進しています。そのためにはクリエイターの制作環境もサポートしていくべきだと考えています。ただし、立体音響の制作には、マルチチャンネルに対応するためスタジオに数多くのスピーカーを設置する必要があります。さらに360 Reality Audioの楽曲を高品位に作るには、13ch以上のスピーカーが推奨されています。こうした環境がないと立体音響の楽曲制作ができない状況を改善できないかと考え、2つの提案をさせていただきました。


『360 WalkMix Creator』の画面。最大128のオブジェクトを360度の全天球上に配置することで360 Reality Audioの楽曲を制作

そのひとつが、Virtual Sonics社と360 Reality Audio制作ツール『360 WalkMix Creator™』(税込み77,000円、販売元メディア・インテグレーション)の共同開発です。もうひとつが、制作スタジオの音場環境をヘッドホンで高精度に再現する立体音響技術「360 Virtual Mixing Environment」と、360VMEの性能を最大限に発揮できる仕様のMDR-MV1の開発になります。360VMEとMDR-MV1使うと、立体音響コンテンツの制作環境を自宅でも再現できるようになり、クリエイターが場所の制約を受けずに立体音響コンテンツの制作ができるようになります」(松尾さん)

MDR-MV1のためにドライバーユニットを新開発


「振動板や音響負荷ダクトの開発には様々な苦労がありました」と語る新免さんと佐藤さん(右端)

沖本さん、松尾さんのお話から、MDR-CD900ST がプロの現場で広く使われているように、MDR-MV1は立体音響やハイレゾなど昨今の高解像度な音楽制作の業界標準となるヘッドホンを目指しているということが見えてきました!
一方で、MDR-MV1のいちユーザーとして不思議だったのが、背面開放型の構造上、密閉型よりも低音が出しづらいはずなのに、しっかりとした低音が小気味良く出てくる点です。これについて、MDR-MV1の振動板や音響負荷ダクトの開発を担当した新免さんと佐藤さんは次のように話します。


ドライバーユニットの前面。MDR-MV1のために新規設計された振動板は、入手性の高い一般的な素材を使用しており、コルゲーションが曲線形になっています

「立体音響の音場を正しく再現するためには、正確な音源の再生能力が求められます。そこで低歪で大音圧再生が可能な、40mm径のドライバーユニットを新たに開発しました。MDR-MV1のために設計した振動板は、エッジ部分にあるコルゲーションと呼ばれる溝の形状を従来の直線形ではなく曲線形にすることで、振幅する際の歪みを抑えています。これによって理想的な低域再生を実現することができました。なお、振動板の素材はあえて入手性の高い一般的な素材を使用しています。MDR-MV1はプロの制作向けに開発した商品のため、標準のヘッドホンとして長年使用されることを想定しています。そのため、振動板の素材は希少性の高い素材に頼らず、入手性の高い一般的な素材を使いながらも形状で音の良さを追い込んでいくことが求められていたんです。

そうした課題をクリアするために我々をサポートしてくれたのが、商品設計のメンバーや、素材を研究するチームです。ヘッドホンメーカーは数多くありますが、社内で連携して、振動板の段階からデバイスを開発できるというのがソニーの強みだと思っています」(新免さん)


ドライバーユニットの背面。穴の開いた白い3本の円柱が音響負荷ダクト

「ドライバーユニットにも独自の工夫を加えています。密閉型と背面開放型ではドライバーの動きに影響する空気の圧力が異なる傾向にあるため、ドライバーユニットの背面に3本の音響負荷ダクトを設けて、低域における通気抵抗をコントロールし、振動板の動作を最適化しました。これによって豊かな低域再現と、低域と中域の分離感を両立し、リズムを正確に表現できます。ダクトの穴の径は、最終調整では0.1mm単位で調整し、選りすぐりの特性が得られたものを採用しました。また、ダクトを振動板の円周方向に沿って3か所に均等に配置したこともポイントです。これにより振動板のピストンモーションを理想的に駆動させられるようになり、低歪な音質を実現できました」(佐藤さん)

こうして作り込んでいった音は、クリエイターやサウンドエンジニアのチェックを受け、最終的な音に仕上げていったそうです。


ソニーには長年培ってきたヘッドホンの設計に必要な耳型形状や頭部のデータベースがあり、それらを活用してMDR-MV1に最適なイヤーパットの形状を決定したそうです

「プロトタイプの段階から、アメリカ・ニューヨークの音楽制作スタジオBattery Studiosのエンジニアにしっかり音を聞いていただき、細かな調整を行いました。1か所のスタジオだけで追い込んでいくと偏りが出てしまう可能性があるので、ヨーロッパや日本のソニー・ミュージックエンタテインメントのスタジオに所属するエンジニアの方々の協力も得て、このヘッドホンの音がどうあるべきかを議論しながら、最終的な音作りを進めていきました。なお、彼らからは音だけでなく、思った以上に装着性についての意見も多く出ていました。イヤーパッドに使用している素材は、高級スポーツカーのシートにも使われているスエード調人工皮革を採用していますが、その評価も高かったです。適度な通気性と透湿性があり、長時間快適に使えることに加え、グリップ性があるので装着時にずれにくいメリットがあります」(松尾さん)

360VMEは最新映画の音楽制作にも貢献

MDR-MV1ならではの魅力を開発者から直接聞くことで、360VMEを用いたときのMDR-MV1の音がどんなものかますます楽しみになってきましたが、ここでいったんブレイク。2つを組み合わせた音を体験する前に、360VMEについて改めておさらいしておきましょう。

360VMEは、ソニーグループで映画事業などを展開する、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント(以下SPE)の映画・テレビ番組制作のワークフローで実際に活用され始めている、立体音響技術です。VMEとは「Virtual Mixing Environment」(仮想ミキシング環境)のことをいいます。スタジオで編集作業を行う人のHRTF(頭部伝達関数)などを測定し、独自の信号処理を加えて個人最適化された360VMEのプロファイルデータを作成。そのプロファイルデータと専用ソフトウェアを用いて、ヘッドホンでスタジオの音場環境を仮想的に再現するというものです。360 Reality Audioをはじめとする様々な立体音響のコンテンツを、場所の制約を受けずに再現されたスタジオの音場環境で制作することが可能です。


360VMEの大まかな流れ

SPEでは、本社のある米・カルバーシティにしかミキシングステージがなく、以前から映画やテレビ番組の音楽の仕上げを行うステージの不足が課題となっていました。さらに追い打ちをかけるようにコロナ禍によって外出できなくなったため、ダビングステージでのミキシング作業ができなくなってしまいました。その解決策として、SPE側から『技術開発研究所で開発している立体音響技術を、在宅のサウンド制作に使えないか』と相談があったそうです。その後、SPEと技術開発研究所の連携の下でこの技術の試験的な運用がなされ、様々な試行錯誤をする中で進化を遂げ、映画音楽の最前線で活躍するサウンドクリエイターからも認められるクオリティを実現。実際に、2021年以降に公開されたSPEの映画の中では、『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』『ゴーストバスターズ/アフターライフ』『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』『アンチャーテッド』などが、ミキシング作業に360VMEを使っています。そしてこのたび、立体音響の広がりを受け、ソニープロフェッショナルソリューション事業室が音楽制作向け360VMEの測定サービス事業を開始することになりました。

「360VMEのアイデアはとてもシンプルで、個人の音の聞こえ方をより正確に測定し、信号処理によってHRTFや部屋の残響情報を含む音を精度高くモニターし、立体音響に最適なヘッドホンで再生することで、立体音響スタジオの音場の再現を追求していくというものです。SPEと連携して開発を進める前は、いかに信号処理をするかに特化していたのですが、プロをも納得させる高精度な再現性を実現するために、信号処理技術だけではなく、測定するためのマイクや再生するためのヘッドホンなど、すべてを新たに開発しています。なおMDR-MV1は、SPEとの連携当初から採用している背面開放型の音響構造をはじめ、360VMEで得られた様々な知見を取り入れており、360VMEの効果を最大限に引き出せるようになっています」(沖本さん)


360VMEの開発に使用した試作ヘッドホン。スリットなどMDR-MV1と共通な部分があるのが見てとれます

「360VME では、測定を行う部屋のスピーカーの音質、部屋の反射などを含めた音響に加え、個人の頭や耳の形による音の変化、ヘッドホンの共振や反響など、すべてが畳み込まれたプロファイルデータで信号処理を行います。そのため、仮想の立体音場を再生するには、背面開放型のヘッドホンが必要だという思いがありました。背面開放型は音が外へ抜けてくれるため、装着したヘッドホンと耳の間にできる空間内の中で音の反射が少ないんです。ヘッドホンそのものの共振や反響を抑えることができるので、より素直に信号処理の効果を反映しやすいのです。こうしたコンセプトを社内のエンジニアに伝え、専用のヘッドホンの開発を彼らと一緒にスタートさせました。また、360VMEでは鼓膜にいかに精度高く音を届けるかがポイントとなります。そこで鼓膜の位置にまっすぐ音が届くように、ドライバーユニットの傾きを頭に対して水平にしています。耳の形によっても測定結果が変わってしまうので、イヤーパッドを厚くして、耳を押しつぶさないようにもしています」(中川さん)

「中川が机の下で研究を進めていた360VME専用のヘッドホンを使用することで、音場環境の再現度が高まることが結果として表れたことで、改めて社内の有識者を集めて話し合い、正式に360VME専用のヘッドホンを作ることになりました。国内外の制作スタジオのサウンドエンジニアに、360VMEおよび専用のヘッドホンを使用してのフィードバックをいただきながら幾度となく改良を重ねながら開発を続け、360VMEのサービス開始に至ることができました」(沖本さん)

ついに360VMEを体験!

360VMEについてよく理解できたところで、お待ちかねのMDR-MV1と360VMEの組み合わせを体験することに! 


360VMEの測定用マイク。耳の中に入れた時に耳の中の空間をふさがないようにするために、細い針金の先にマイクが取り付けられている(注・写真はMIL Studio取材時のもの)

まずは視聴室の中央に置かれた椅子に座り、360VMEの測定のために作られたマイクを耳に装着します。その後、ピンクノイズでリファレンス音圧の確認をします。このとき測定側では、スピーカーの信号がマイクにどのくらいのボリュームで入力されているのかを見ています。続けて各スピーカーからスイープ音を出力し、周波数特性と位相を測定します。部屋の特性も含め、測定対象の方の頭や耳の形に応じて、音がどのように聞こえているかを測定しています。

そしてマイクを装着した状態のまま、MDR-MV1を装着します。装着時はしっかりと耳が覆えて、かつ圧迫感のない装着感が得られる位置に、MDR-MV1のスライダーを調整します。測定時と同じ位置で装着することで、立体音響の再現性が高くなるためです。正しく装着できたら、MDR-MV1からスピーカーで鳴らしたものと同じピンクノイズとスイープ音を出力し、ヘッドホンで再生した場合にはどのように聞こえているかを測定します。2つのデータを元にパラメーターの最適化を行い、個人プロファイルデータを作成。このデータを専用アプリで再生することで、精度の高い空間再現ができるようになります。


中川さんによれば、同じ再生環境下でも人の頭や耳の形が違うため、測定結果にははっきりと差異が出てくるそうです

一連の測定の流れはこれで終了。測定やデータを最適化する時間を含めて10分もかかっておらず、逆に「え、これで終わり?」となるくらいです。これできちんとしたプロファイルデータができることにも驚かされます。そしてお待ちかねの、スピーカーで聴いた音とMDR-MV1ならびに360VMEを組み合わせた時の音との比較体験です!


『スパイダーマン:スパイダーバース』のワンシーンを7.1.2chで再生し、スピーカーの音とMDR-MV1の音を聞き比べました!

音像が頭の中ではなく真正面に定位していて、スピーカーからか、ヘッドホンからの音かが判断できない! キャラクターのダイアローグ(対話)が聞き取りやすく、ヘッドホンなのに視聴位置をぐるっと回り込む音が自然に聞こえます。エンタメ系のライターとして様々なVR体験をしてきましたが、いずれもまだ脳や感覚器を誤認識させられている感覚があり、VRの世界を楽しむために自分から仕掛けに乗っていくようなところがありました。仮に360VMEをVRコンテンツのひとつとしてとらえるならば、360VMEはその場で聴いている音と地続きな音がするので、脳がだまされている感がありません。細かいことを言えば、低域のボディソニック感がないなど、気になるところは出てきますが、それでもこの体験は代えがたいものがあると感じました。

MDR-MV1は、他の帯域に比べて低域の押し出しがほんの少しだけ強いかなと個人的には感じていたのですが、そうしたMDR-MV1固有の音が消えてしまい、Wilson Audioの音色になるのも不思議です。この現象について、沖本さんはこう語ります。

「部屋の残響やスピーカーの音など、その場の音が全部含まれている測定データを用いてプロファイルデータを作成し、360VMEのアプリで再生するので、例えば視聴室のスピーカーをB&WにすればB&Wの音がするようになるんです。後日体験いただくMIL StudioはスピーカーがFocal製で、ここよりもチャンネル数が多いため、また違った体験ができますよ」(沖本さん)

360VMEの測定スタジオであるMIL Studioを訪問

沖本さんの言葉を聞いて、「使っているスピーカーの音がするって、本当なの?」と思いながら技術開発研究所を後にした筆者。後日、360VMEの測定スタジオであるMIL(Media Integration Lab)のMIL Studioを訪れ、再度360VMEでプロファイルデータを計測し、Focalのスピーカーの音とMDR-MV1の音の比較をさせていただきました。MIL Studioは360VMEの測定サービスを提供する公式スタジオです。


東京都目黒区の閑静な住宅街にあるMIL Studio


取材に対応いただいたメディア・インテグレーション ROCK ON PRO事業部の前田洋介さん(左)と山之下朝陽さん(右)<中央は筆者>

スタジオに入ってすぐに感じたのは「部屋の音がいい!」ことです。オーディオ好きとして、縁に恵まれていろいろなオーディオファンのご自宅に遊びに行かせてもらったり、仕事上で音楽スタジオを訪れたりする機会がありましたが、その体験の中でも屈指のルームアコースティックであると感じました。スタジオの設計に携わったのは、日本初のDolby Atmos対応のダビングステージ「東映DUB1」をはじめ、数多くの音響スタジオ設計を手掛けている株式会社ソナの中原雅考さんです。


わかる人にはわかるオーディオ再現音場の世界ではなく、誰にでもわかる自然な音場の再現を目指し、「オーディオを超える音の自然体験空間」をテーマにMIL Studioは作られたそうです

「普段我々が生活しているときは、四方八方、すべての方向からやってくる音を聞いています。3Dの角度はラジアン(1πrad=180°)を拡張したステラジアン(sr)という単位で表すのですが、これを自然界の音に用いると4πsrとなります。オーディオの世界では3Dの北半球と前方下方向をカバーする2.3πsrまで音場を再現できるようになりましたが、それでも全周から音場を切り取って、そこに音を押し込むというエンジニアリングの作業が入っていました。さらには正しい位置にきちんとスピーカーを配置しないと、正確に音場が再現されません。中原さんはそうした状況を『オーディオの壁』とおっしゃっていて、これを打破できるような、誰もが気軽に良さがわかるオーディオ再生ができないかという思いの下、MIL Studioを設計されました」(前田さん)


スタジオは地下1階にあります。1階部分は吹き抜けになっているので、実際の広さよりもエアボリュームが大きく感じられます


スピーカーはすべてFocal製。天井や床に埋め込まれているものをはじめ、スタジオ内には43.2chものスピーカーが理想的な位置に配置されています。360 Reality Audioだけでなく、Dolby Atmosや8K/4K放送の22.2ch、AURO-3Dなど、あらゆる音源フォーマットに対応しています

説明の際に、BGMとして鳥のさえずりなどが聞こえるヒーリング系の立体音響の音源が流れていたのですが、音が全方位から聞こえてきて、しかも音の上下も認識できるので、自然界の音に近しい雰囲気。ステレオで聞くよりも、格段に癒し効果が高いです!なぜそんな気持ちになってしまうのか、聞いてみました。

「MIL Studioのサウンドは、森の中で鳥が鳴いた音を特定のスピーカーで『点』で鳴らすのではなく、複数のスピーカーで鳥が鳴いたときの音場を『面』で再現するようなイメージです。そうすることによって音を鑑賞するのではなく、音を体験する――本当に森の中にいるような、没入感が生まれてくるんです。昨今、Apple MusicやAmazon Music Unlimitedなどで、立体音響を気軽に聞けるようにはなったんですが、これにも一長一短があって。汎用のバイノーラル再生となるので、制作者が意図しない位置から音が聞こえてしまったりとかして、きちんと再生されていないケースがあるのがもったいないなと。そうしたオーディオの壁を取り払い、皆さまに立体音響のすばらしさに触れていただきたい、制作者にも立体音響をいい音で聞いてもらって創作意欲を刺激したいという思いから、弊社はMIL Studioを作りました。360VMEサービスを提供することになったのも、そうした流れのひとつとなります」(前田さん)

オーディオの壁を超えた理想的な立体音響体験が可能

MIL Studioについて理解したところで、360VMEの測定へ。流れはソニーで測定したときとすべて同じです。かかった時間もほとんど変わりませんでした。


MIL Studioでの360VME測定に使用する機材


ソニーと同様に、はじめに専用のマイクをつけます


視聴中の筆者。なお、MIL Studioは一般のスタジオよりもあえてライブな音場にしているそうです


測定は正しくデータが取れているかをモニタリングしながら行われます。イヤーパッドをしっかり装着できてなかったため、「最低域が抜けてしまっています。再測定させてください」と山之下さんから申し出があった場面もありました

測定後、バイノーラル録音の女性ボーカルを視聴!視覚的な影響もあると思うのですが、抜け感がよく、天井の高さもあって、より空間感を感じることができました。音が背後から再生されている感覚がしっかりとあり、音の上下の位置や、自分との距離感もつかみやすいと思いました。制作側が音楽表現として、北半球のいろいろな箇所に意図的に音を配置していることがよくわかります。一方でMDR-MV1の音がいい意味でしなくなるのは共通で、凹んだ形状が特徴的なベリリウムツイーターによる、明瞭な中高域が特徴的なサウンドが楽しめます。また、「ここのスピーカーが鳴っている」という意識は少なく、前田さんが言われていた「音場を『面』で再現する」というのが実体験できました。

現状は楽曲制作者向けのサービス

ヘッドホンの未来を感じさせるような体験を再びできたのですが、実はこの360VMEサービス、あくまでも360RealtiyAudioなどの立体音響音源を制作するクリエイター向けのサービスなので、残念ながら一般のオーディオファンは基本的には利用できません…。ただ、JASジャーナルの読者にはプロのクリエイターの方もいらっしゃると思うので、以下に簡易的な申し込みの手順を説明しておきます。費用は1プロファイル測定で68,000円(税別)で、追加の測定1プロファイルにつき 20,000円(税別)がかかります。その他詳細はソニーの360VME公式サイトや、メディア・インテグレーションの公式サイトをご確認ください。ここに示した金額は、取材時2023年の9月時点のものとなります。

  1. ①メディア・インテグレーションの360VME 測定サービスのWeb問い合わせフォームに申し込み内容を記載
  2. ②申し込み内容に関して、同社から測定希望フォーマット、測定使用ヘッドホン数、機種などの詳細を訪ねる連絡があり、測定の希望日時の調整をする
  3. ③調整した内容に合わせて見積りが出される。ユーザーが測定料金の決済完了後に、測定予約番号、予約確定日時、MIL Studioの住所、連絡先が知らされる
  4. ④測定に使用するヘッドホンを持参したうえで、MIL Studioにて測定
  5. ⑤測定後、測定プロファイル、標準プロファイル、VMEインストーラー、ユーザーマニュアルが保存された特製USBが渡される


360VMEを利用するときの流れ

360 Reality Audio 制作時の実際の利用方法としては、Pro Toolsなどの対応DAWに、プラグインとして360WMC(360 WalkMix Creator™)を利用。スピーカー出力として仮想ドライバーの360VME Audio Driverを選び、さらに再生ソフトとなる360VMEアプリから入力ソースとして360VME Audio Driverを指定して、測定したユーザーのプロファイルデータを360VMEアプリに読み込ませると、自宅でMIL Studioの音を再現できるようになります。なおサポート環境はmacOS 10.15.7以上のみに対応しており、Windows版の対応は2024年春以降を予定しているそうです。


360 Reality Audioでのユーザーの再生環境を図解


360VMEサービスを使った360 Reality Audio制作時のカスタマージャーニー

「プロ向けのサービスではあるのですが、なかには一般のオーディオファンと思われる方からの問い合わせがありました。ソニーさんにも同様に一般のオーディオファンから同様の問い合わせがあるようです。ちなみにヘッドホンは仕事上で使っているものを持ち寄る方も少なくありません。開放型のヘッドホンはMDR-MV1に近しい再現性が得られることが多いです。意外なところでは、ノイズキャンセリング機能を持つヘッドホンやイヤホンもよい結果が得られることがありますね」(前田さん)

ひととおり体験を終えての感想

360VMEとMDR-MV1の組み合わせで体験できる立体音響の音は、プロの現場だけでなく、オーディオ世界のゲームチェンジャーにもなり得る可能性を秘めているように感じました。オーディオの世界から一度離れた者としては、オーディオに興味のない人を「沼」に引き込むのって、すごくハードルが高いなと感じていたんです。鳴らせる部屋がなかったり、予算だったり、良い音で鳴らすためにはセッティングが難しかったり、いい音に出会う機会が少なかったり…。わかる人にはわかるという趣味にとどまっていて、人には勧めづらいなあと歯がゆい気持ちでいました。しかし、この360VMEとMDR-MV1の組み合わせは、様々なハードルを乗り越えてでも自分で使いたくなったり、誰かにお薦めしたくなるほどの魅力を感じました。

360VMEはマルチチャンネルだけでなく、実は2ch再生でも個人プロファイルデータの測定が可能で、その部屋の音を再現することが可能です。そのため、たとえば有名なジャズ喫茶「ベイシー」で測定すれば、「ベイシー」の音がいつでもどこでも聞けることになります。他にも、ミュージシャンやゲームクリエイターがスタジオで音決めした環境を、まったく同じとまではいかなくても、近しい再生環境を自宅に手軽に持ち込めるとなったら、これはファン垂涎の体験となるはず!そんな世界が訪れる可能性があることにドキドキしました!現状はプロの制作者向けのサービスで、一般のオーディオファンの利用が実質的に難しいのが残念ですが、若干ダウングレードしたバージョンでもいいので、広く皆さんが使える状況が訪れるといいなと思いました。ソニーさん、ぜひよろしくお願いします!

執筆者プロフィール

有路昇(ありじ のぼる)
1977年生まれ。大学卒業後、インテリアデザイン会社、政治・経済専門誌を経てフリーランスに。現在は漫画やアニメなどエンタメ系コンテンツの記事や書籍を主に手掛けている。編集協力・執筆した書籍に『JOJO’s Bizarre Quizzes 500 ジョジョの奇妙な問題集』、『ONE PIECE magazine Vol.15』(ともに集英社刊)など。