2023summer

ベルリン・フィル「デジタル・コンサートホール」のイマーシブオーディオ Part 1

名古屋芸術大学 音楽領域 サウンドメディア・コンポジションコース
准教授 長江和哉

1. はじめに

2023年3月、ベルリン・フィルハーモニーとベルリン・フィル・メディア(以下、BPM)本社を訪ね、ベルリン・フィルの会員制配信サービス、デジタル・コンサートホールのプロデューサーでトーンマイスターのクリストフ・フランケ氏(Christoph Franke)、ドルビーアトモスの音声技術を担当するトーンマイスター、アンドレアス・ヴォルフ氏(Andreas Wolf)、ベルリン・フィルのトーンマイスター 、マルコ・ブットゲライト氏(Marco Buttgereit)にデジタル・コンサートホール(以下、DCH)のイマーシブオーディオについてインタビューを行った。

2008年に始まったDCHはテクノロジーの発達とともに進化してきた。映像は720p、HDR、4K UHDと進化してきたが、音声は2021年にロスレスハイレゾ化、2022年よりアーカイブでイマーシブオーディオフォーマットであるドルビーアトモスでの配信が始まった。私はこのイマーシブオーディオ=立体音響化に際し、実際に音源を制作する氏らの考えと制作手法に深く触れたいと考え、インタビューの機会を探っていたが、今回幸運にもこのように実現した。本寄稿では、DCHの音声制作を中心としながら、現在までの15年間と来たる新時代のイマーシブオーディオ化までを2回に渡って紹介し、ライブコンサート配信の醍醐味と芸術性は何なのかを考察していきたい。


写真3 フィルハーモニー5階にあるStudio 3

2. デジタル・コンサートホール

2008年8月29日、2008-2009シーズン開幕コンサートよりDCHチームでの収録が始まった。この時はまだライブ配信はしておらず、来るべき配信サービス開始に向け、各コンサートを収録し、アーカイブ化していく段階であった。そして、2008年12月17日、ソロ・チェロ奏者で創設者のオラフ・マニンガーは記者会見し、2009年1月6日よりライブ配信を開始し、同時に2008-2009シーズンのコンサートがアーカイブ視聴できると発表した。その後、今日まで14年間、世界中の熱心なクラシック音楽愛好家の支持を得ている音楽配信サービスとなっている。

そんななかBPMは、DCHの配信開始15周年となる2023-2024シーズン開始に際し、「15 Jahre Digital Concert Hall」と題し、サービス開始当時から今までを振り返った年表を新シーズン・プログラム冊子に公表した。以下はその抜粋である。なお、筆者が付け加えた箇所については引用を明記する。

デジタル・コンサートホール15年の歴史

2008年
ドイツ銀行がDCHをサポート(2016年まで)[参考文献1]
2008年8月29日
シーズン開幕より収録を開始。ラトル指揮ブラームス「3番」、ショスタコーヴィチ「10番」[参考文献2]
2008年12月17日
創設者のオラフ・マニンガーがDCH開始を発表。ライブ配信、アーカイブ配信を開始
2009年1月6日
最初のライブ配信。ラトル指揮ドヴォルザーク「スラヴ舞曲」、ブラームス「1番」
2010年8月27日
シーズン開幕コンサートをドイツ国内の33の映画館にライブ配信
2012年8月
ソニーとの協業を開始(2016年7月まで)[参考文献3]
2012年
スマートテレビ用のDCHアプリで配信開始
2013年
iOS、Android用のDCHアプリで配信開始
2014年7月
カラヤン、アバド時代の映像も視聴可能に
2016年4月
IIJとの協業開始 [参考文献4]
2017年1月1日
パナソニックとの協業開始 [参考文献5]
2017年年末
ライブ、アーカイブ共に4K UHD/HDRオーディオで配信開始
2019年
音声収録フォーマットを48kHz/24bitから96kHz/24bitに変更 [参考文献6]
2019年8月23日
ペトレンコが首席指揮者に就任。シーズン開幕コンサートはベートーヴェン「第九」
2020年3月30日
コロナパンデミックが始まりフィルハーモニー閉鎖。DCHを30日間無料開放
2020年5月1日
パンデミックのためヨーロッパコンサートは無観客。DCHでライブ配信
2021年3月20日
パンデミックが落ち着きフィルハーモニー再オープン
2021年6月
アーカイブ版がハイレゾ・ロスレスオーディオ48kHz/24bitで配信開始 [参考文献6]
2022年6月
アーカイブ版をイマーシブオーディオ(ドルビーアトモス)で配信開始 [参考文献6]
2023年-2024年?
イマーシブオーディオ(ドルビーアトモス)でライブ配信開始予定 [インタビューより]

2000年代、インターネットは急速に普及し、世界中と瞬時にコミュニケーションできるようになり、電話とFaxしかなかった頃とは考えられないほど進化した。しかし、現代では普通なことである動画や音声をリアルタイムに伝送することについて、2008年当時はまだチャレンジンングな時期であった。しかし、月日が経つにつれ技術が進化し、より高解像度かつ高音質での配信が可能となった。音声について見ていくと、2019年には、収録フォーマットが48kHz/24bitから96kHz/24bitとなった。また、配信される音声は、2021年6月に48kHz/AAC 320kbpsからロスレス48kHz/24bit FLACとなった。さらに、2022年6月からは、アーカイブで立体音響フォーマットであるドルビーアトモスの配信が始まった。そして、いよいよ来たる2023-2024シーズンよりライブ配信でもドルビーアトモス配信が始まるとのことである。

年表からもわかる通り、いきなり高品位なフォーマットにジャンプアップするのではなく、常に映像と音のテクノロジーの進化の行く末を見据えて、計画的にステップアップしてきていることがわかる。また、誰もが予期しなかった演奏家とオーディエンスを分断したコロナ禍の到来も、このDCHが功を奏したことは言うまでもない。つまり、DCHはこの15年でレコード会社やテレビ放送にもできない、「演奏家と音楽愛好家をダイレクトにつなぐ新しい時代のメディア」になったわけである。

3. ライブ配信

ベルリン・フィルのシーズンは、8月4週目の週末、音楽フェスティバル「ムジークフェスト・ベルリン」で幕開けする。シーズン中は、毎週木・金・土の3日間、同一内容のコンサートを行うが、通常その最終日である土曜日のコンサートがDCHでライブ配信される。また、毎週コンサートとは別に、子供のための「ファミリーコンサート」、年末の「ジルベスターコンサート」、4月のバーデン・バーデンでの「イースター音楽祭」、5月1日の楽団創設日に行われる「ヨーロッパコンサート」、6月末のシーズン最後にヴァルトビューネで行われる「ピクニックコンサート」などのスペシャルなコンサートもDCHでライブ配信される。

2022-2023シーズンでどれだけのコンサートライブ配信があるかをDCHのウェブページで調べてみると、実に42回あった。1年は52週しかないわけであるが、そのなかで、42回コンサートをライブ配信するということは実に驚異的なことであると感じる。また、2022年からはライブ配信された翌日である日曜日の日本時間20:00に繰り返し配信を行っている。コンサートは、通常ドイツ時間の20:00から行われるが、日本は時差の関係で夏時間は深夜3時、冬時間では深夜4時となるわけであるが、嬉しい配慮である。さらに、近年はDCHのウェブページは完全に日本語化されているが、このことからも日本のマーケットをどれだけ重要視しているかが伝わってくる。

4. アーカイブ配信

ライブ配信された後、動画は一旦非公開となるが、通常、翌週木曜日にアーカイブ版として公開される。その期間に編集が行われているわけであるが、一体どのように編集されているであろうか?それはベルリン・フィルの音楽をリスナーとしてのみ接するだけであれば知る必要もないが、音楽制作者として接するのであれば話は別である。一般的に、映像と音声はもちろん「ライブ配信された際の演奏」が使用されていると認識されるが、実際に音声については、「ほぼ全てがライブで演奏された音」が使用されていると言える。つまり、ベルリン・フィルの通常の公演は本番が3回、そしてゲネプロもあるわけであるが、その全ての音声を録音すれば、ライブ配信された際の演奏で音楽的にうまくいかなかったところや予期しないノイズが入ってしまったところは、その一瞬をライブ配信された公演以外の音声を用いて編集していくということができるわけである。もちろん、この「編集」という部分は音楽制作のヴェールに包まれた最もナイーブな部分となるが、毎年約40回のベルリン・フィルの公演を収録し、アーカイブしていくことは、この「今の時代」を生きた音楽家が解釈した演奏を「永遠」に保存していくという作業となる。そしてその詳細については、それらを編集するトーンマイスターの録音哲学が色濃く出るわけであるが、このベルリン・フィルの音楽を「音楽的に最もふさわしい状態」でアーカイブしていくということは、世界一のオーケストラの音声伝達に関わるものとして最も重要な使命であると察する。

筆者はかねてから、この編集ということを研究してきた。現在はデジタル技術が発達しているので、ライブ配信された音源とアーカイブされた音源をそれぞれ録音し、2つの音源のタイミングを完璧に合わせ、片方の信号を逆相という電気的にプラスマイナスを入れ替えるという状態にして加算すると、2つの音源の差異が見えてくる。つまり、それらが、その編集の真実である。もうこれ以上説明する必要ないと思うが、その箇所を比較しながら聴いてみると、編集を担当するトーンマイスターの音楽に対する考え方や哲学を垣間見ることができるわけである。そしてもちろん一般的なリスナーは一切の「編集」を感じることなく、ベルリン・フィルの音楽の「究極の美」を感じるわけである。


写真6 DCHのアーカイブより、最上段はライブ配信された音声、中段はアーカイブ版の音声、下段はその差異

5. ステレオとイマーシブオーディオ

ステレオ収録と再生について、その基本は、音源を2つ以上のマイクを用いて収録し、その信号をLとRのスピーカーから再生すると立体的な印象で聴取できるシステムであり、現在のオーディオ再生のもっとも基本的な技術である。ステレオ再生についてWikipediaには以下のように明記がある。「ステレオフォニック再生は、典型的には、聴取者の水平方向前方左右30度の位置に一対のスピーカーを配して2チャンネルの音声を再生する。(中略)録音については、左右一対のマイクロフォンで集音してそのまま2チャンネルの音声とする方式と、個々の楽器や歌手に個別のマイクをあてがい、オーディオミキサーで2チャンネルの音声にまとめる方式とがある」[参考文献7]

オーケストラの録音で考えてみると、指揮台の上に1m程度の間隔をとって設置したL-R 1組のマイク=ABステレオメインマイクを用いて収録すると、各楽器の音が、L-Rのマイク間で、時間差、レベル差、音色差がある状態で収録され、それを2つのスピーカーで再生すると、その場の状況が立体的に聴取できるというわけである。


図1 ステレオとイマーシブオーディオの伝送の概念と、オーケストラの音声収録におけるマイク配置手法の概念(筆者作図)

一方、イマーシブオーディオの収録と再生について、その基本は、音源に対して位置や高さや向きの異なる複数組のステレオマイクを用いて収録し、リスナーを取り囲むように設置したスピーカーより再生すると、ステレオ以上に立体的な印象で聴取できるシステムである。しかし、その基本は1990年代に技術が確立した5.1chや7.1chサラウンドにある。つまり、7.1.4chは、7.1chを中層=ミッドレイヤーとし、上層=トップレイヤーに4chを配したものであると言える。[参考文献8]

現在、イマーシブオーディオフォーマットは、ドルビーアトモスをはじめ、360 Reality Audio、AURO-3D、DTS:Xなど様々な方式があるが、ミュージックエコシステムのウェブサイトには以下のように記述がある。「Immersiveというのは、「没入感」という意味です。つまり「イマーシブオーディオ」とは「没入感の高いオーディオ」という意味になります。一般的には、たくさんのスピーカーを配置したり、ヘッドフォンでの再生でも特殊な処理を行うことにより、360度、全方位から音が聞こえるコンテンツを「イマーシブオーディオ」と呼んでいます。(中略)「イマーシブオーディオ」が、「立体音響」「3Dサラウンド」と呼ばれることがあるということは、つまり「イマーシブオーディオ」とは、「サラウンド」の一手法ということもできます。いままでの「サラウンド」というと、5.1や7.1といった平面にスピーカーを配置したいわゆる「2Dサラウンド」でしたが、「イマーシブオーディオ」すなわち「3Dサラウンド」は、上層部にもスピーカーを配置し、空間に半球面や全球面を表現する立体的なサラウンド手法となります」[参考文献8]

6. オーケストラの収録手法

オーケストラを収録するには、どのようにマイクを設置するか?ステレオで、オーケストラを収録するには、1組のステレオメインマイク=「ワンポイントステレオ」という手法でも収録できるかもしれない。実際に、慎重に位置を検討したワンポイントステレオマイクで収録され、多くのリスナーから評価されている音源もある。ただ、一般的に言えるのは、そのワンポイントステレオマイクは、「ある編成のある楽曲のある楽章のあるシーン」ではふさわしくても、「他のシーンや他の楽章」で音楽家やリスナーが求めるオールマイティな音となることは、筆者の経験上かなり難しいと考える。

そのようなことから、現在のほとんどのオーケストラ収録では、メインマイク、スポットマイク、ルームマイクを使い、ある程度、サウンドを可変することができる「マルチマイク収録」が用いられている。


図2 マルチマイクによるオーケストラ収録(筆者作図)

実際の収録では、メインマイクを設置した後に、「もう少しこの楽器をはっきりさせたい」「もう少し響きが欲しい」「もっとこの声部がもっと聞こえるべきである」ということが当たり前のように起こるが、収録の際に、役割を持たせた各マイクを設置することで、収録されるサウンドをリアルタイムに調整していくことができる。図2は、筆者が考える一般的なオーケストラ収録のマルチマイクでのマイク配置図である。各マイクの役割について、メインマイクは、指揮者の頭上もしくは背後に設置されるマイクでオーケストラ全体を捉え、各楽器からの直接音とホールで響いた音の両方を収音するステレオペア全指向性マイクである。音楽のシーンによるが、全体の50%から80%ほどのレベルを占めることもある最も大切なマイクである。

スポットマイクは、各楽器の近くに設置する単一指向性のマイクで、各楽器の定位や、各楽器の声部の役割を明確にする役割がある。また、各音楽のシーンにあわせてレベルを増減させることにより、その音楽にとって最もふさわしいバランスとなるように積極的にバランスを変化させていくこともできる。

ルームマイクは、ステージから離れたところに設置するマイクで、ホールで響いた残響を収音するステレオペア全指向性マイクである。デジタルリバーブとは異なり、メインマイクと相関関係がある音となり、特にサラウンドやイマーシブオーディオでは必須となるマイクである。

トーンマイスター=サウンドエンジニア・プロデューサーは、これらのマイクを組織して収録を行なっていくわけであるが、このDCHのサウンドは、毎回違ってはいけないことは簡単に想像できる。つまり、DCH上で共通のある音の哲学がベースにある必要があるが、この部分はインタビューを参照されたい。

7. Dolby Atmos®(ドルビーアトモス)

ドルビーラボラトリーズが開発し、2012年に映画やドラマ等の映像作品向けに発表された立体音響技術であるが、2021年にアップルミュージックやアマゾンミュージックに採用されたこともあり、現在、多くの端末で再生することができるフォーマットである。ドルビーのホームページには以下のように明記がある。

「ドルビーアトモスは、従来のサラウンドサウンドに加えてさらにレイヤーを追加することで、エンターテイメントにおいてプレミアムな多次元サウンドを体験できる空間オーディオテクノロジーのパイオニアです。ゲームをしていても、お気に入りの映画や番組を見ていても、新曲を繰り返し聴いていても、より多くの音を聴き、感じられるように、ドルビーアトモスが、その世界へと深く引き込む空間サウンド体験にあなたを誘います」
[参考文献9]

また技術的仕様については、最大128のオーディオトラックがあり、その内訳は、7.1.2chの「ベッド」チャンネルと、最大118のオブジェクトトラックとなっている。音声にはそれらをどのように再生すべきかのメタデータ(位置、音の動きや音量に関するデータ)を含んでいる。 [参考文献10]

名古屋芸術大学ではDCHのドルビーアトモスを視聴するために、Apple TV 4kとドルビーアトモス7.1.4ch対応AVアンプを用意した。具体的には、Apple TV 4KにApple tvOSのDCH専用アプリをインストールし、Apple TV 4KとAVアンプをHDMIで接続し、視聴したいコンサートを選択することで、コンサートが7.1.4chで再生される。なお、本学では、図のように機器を接続しており、DCHの音源を研究できるようになっている。

8. 収録システム

1963年にオープンしたベルリン・フィルハーモニーは、ホールの中心に舞台を配置したヴィンヤード型で、収容人数は2250。満席時の残響時間は約2秒で、世界中にあるヴィンヤード型ホールのモデルになっている[参考文献12]。ホール内には映像用スタジオとともに音声用スタジオ、Studio 3がある。

映像用スタジオは、2017年にパナソニックとの協業が始まった際に現在の機材に更新され、ホール内に設置した4Kカメラ7台のコントローラー、4Kスイッチャー、カラーコレクターなどが完備されている。

音声用スタジオのStudio 3は、2018年に更新され、機材は、コンソールStagetec Aurus Platinumと、Merging Technologies のDAW PyramixとオーディオインターフェースHorusを中心とし、96kHz/24bitでマルチトラックレコーディングできるシステムである。2023年にはNeumannのKHスピーカーで、ドルビーアトモス7.1.4chのモニタリングができるように整備された。このStudio 3の機材は、ベルリン・フィルのみではなく、ドイツ公共放送ドイチュラントフンククルトゥアとベルリン・ブランデンブルク放送RBBで共同所有している。また、ホールの天井裏には30個の電動一点吊りマイクシステムがあり、多くのマイクを天井から吊る方式で配置している。

9. 制作事例

2023年3月11日に行われたエマニュエル・アイム指揮、ヘンデル オラトリオ「時と悟りの勝利」について、幸いにも筆者はフィルハーモニーのB席でコンサートを観る機会に恵まれた。バランスエンジニアは、フィルハーモニー所属のトーンマイスター、ウルリヒ・シュティーラウ氏(Ulrich Stielau)、プロデューサーは、セバスティアン・フィッシャー氏(Sebastian Fischer)であった。このコンサートは現在、DCHでアーカイブ版を観ることができるが、この音声はドルビーアトモスとなっている。ただ、このミックスはステレオから作成されたアップミックスとのことである。

日本に帰国後、本学のスタジオにて、Apple TV 4KとDENON製AVアンプを介して7.1.4chで視聴したが、アップミックスといえどもフィルハーモニーのホールの雰囲気がとてもよく出ていた。なお、後述のインタビューにもあるが、フランケ氏によると2023-2024シーズン中に、ステレオからのアップミックスではない、つまりネイティブの7.1.4chでミックスを行なっていくということである。

メインマイクとスポットマイク

当日のメインマイクは、写真25のようにセッティングされていた。現在、フィルハーモニーには、間隔100cmほどの下向きの全指向性Neumann KM130によるメインマイクシステムと、スピーカーの真下に間隔110cmほどのバーに全指向性DPA4006と双指向性Neumann KM120が同軸に設置されたメインマイクシステムがある。シュティーラウ氏にどちらのマイクを使用したかについて伺ったところ、Neumann KM130であった。またスポットマイクは天井よりSchoeps CCMシリーズのマイクが数多く吊られているが、これらについて、どのようにミックスしたかを事後に伺ったところ、「スポットマイクをディレイするタイムアライメントは行いませんでした。このタイムアライメントのテーマにはさまざまなアプローチがありますが、私の経験では、今回のような小さな楽器編成は、ディレイなしでミックスすると少しオープンに聞こえます。また、スポットマイクはメインマイクの影にならないため、レベルを低く保つことができますが、それでもミックスに少しの「グリップ」が追加されます。しかし、これはこのテーマに関する私の個人的な考えにすぎません」との返答が得られた。

アップミックス処理

DCHのドルビーアトモス化は、2022年6月よりアーカイブ版のみで始まったが、現在はステレオミックスをもとにアップミックスし7.1.4chを制作している。その詳細について、DCHのウェブページには以下のように記されている。

「本拠地フィルハーモニーは、ベルリン・フィルの唯一無二の響きと、音楽体験にとって重要な要素である空間が出会う場所です。この空間体験こそ、私どもが皆様に直接体験していただきたいものです。それは音響信号のミキシングの際に複雑なアルゴリズムを行い、ホールの空間性を再現することにより実現しました。また、音楽作品によって編成が異なり、楽器グループが常に舞台上の同じ場所に配置されているとは限らないため、作品ごとにミキシングを行っています。その際重要な役割を担っているベルリン・フィルフィルハーモニーの空間に特別に合わせて行われたアップミックスプロセスです。これはサウンドエンジニアのベネディクト・シュレダーが開発したもので、アンドレアス・ヴォルフとの協同でデジタル・コンサートホールのコンサートのミキシングに使用されています。それにより、ステレオで収録されたコンサート音源がドルビーアトモス7.1.4chに変換されます」[参考文献13]
詳細については、インタビューを参照されたい。

10. インタビュー

ベルリン・フィル・メディア プロデューサー クリストフ・フランケ氏


写真28 クリストフ・フランケ氏(Christoph Franke)

あなたのキャリアを教えてください。

私はベルリン芸術大学でトーンマイスターを学び、1994年に卒業しました。私が初めてレコーディングの仕事をしたのは学生時代の1988年、テルデックのスタジオでピアニストのエリザベート・レオンスカヤの録音でした。当時は、2チャンネルDATでレコーディングしていました。私の仕事はDATを操作してテイクリストを書くことでした。そして、あれから35年が経ち、現在はベルリン・フィル・メディアの仕事を主に担当していますが、フリーランスとしても活動を続けています。そして今でもエリザベート・レオンスカヤの録音を「レコーディング・プロデューサー」として、担当しており、最近ではルツェルンでシューマン、グリーグのピアノ協奏曲を録音しました。

BPMで働き始めたのはいつからですか?あなたの役割は何ですか?

私は2007年から2008年にかけて、DCHを実現する小規模チーム(3人)の一員でした。当初からオーディオを中心に、製品の音楽的および技術的品質を担当していました。2014年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の独自レーベル「ベルリン・フィルハーモニー・レコーディングス」を設立して以来、私は(以前、サイモン・ラトルの録音プロデューサーだったように)ベルリン・フィルのすべてのCD制作を担当してきました。2019年にキリル・ペトレンコがベルリン・フィルの首席指揮者に就任して以来も、その役割は続いています。そして、DCHの日常業務の多くに関与しており、ベルリン・フィルに関連する可能性のある新しいテクノロジーの研究にも取り組んでいます。

DCHリスナーにどんな音のアートを届けたいですか?

そのアイデアは、コンサートホールの雰囲気と、録音だけが伝えることができる明瞭さと、透明性を組み合わせたサウンドスペースを作成することです。ストリーミングされる曲のスコアは権威であり、すべての声部の完璧なバランスについての作曲家のアイデアが記されています。音楽に意味があるようにするには、作曲家のアイデアを理解する必要があります。

ネイティブミックスによるドルビーアトモスのライブストリーミングはいつから開始されますか?

ドルビーアトモス化について最初のタスクは、DCHが始まった2008年のラトル時代からの過去アーカイブを全てアップミックスすることでした。今は45%ぐらいのところまで来ています。その作業が終わったら、次に、ネイティブでのアトモス配信を行なっていく計画です。言うのは難しいですが、社内のさまざまなワークフローを調整し、さらにこのサウンド形式のライブストリーミングテクノロジーを調整するには、さらに時間がかかります。しかし、来シーズン(2023年8月25日~2024年6月24日)中に良い結果が得られると確信しており、私たちはイマーシブオーディオのライブストリーミングを行うことが可能となるはずです。

ベルリン・フィル・メディア トーンマイスター アンドレアス・ヴォルフ氏


写真29 アンドレアス・ヴォルフ氏(Andreas Wolf)

あなたのキャリアを教えてください。あなたの役割はなんでしょうか?

私はベルリン芸術大学でトーンマイスターを学びました。現在は、ベルリン・フィル・メディアで音声の技術的な部分を取りまとめています。

アップミックスは、どのように行なっていますか?

具体的には、ステレオミックスから直接音と間接音を分離、フィルタリング処理し、その信号を各チャンンネルに割り当てています。また、インパルスレスポンスを用いたコンボリューション・リバーブ、つまり、サンプリングしたフィルハーモニーの響きを付加しています。ただ、これらを画一的に処理しているのではなく、私とベネディクトが聴いて、楽曲に応じてファインチューニングしています。

今後、ステレオとアトモスのどのように制作するのでしょうか?

私たちはDCHで年間40回以上のコンサートを中継します。その中継は、私たちベルリン・フィルやデジタル・コンサートホールのトーンマイスターのみではなく、ドイツ公共ラジオであるドイチュラントフンクやベルリン・ブランデンブルク放送などで中継がある場合は、ラジオのチームにより収録が行われ、その音声がDCHにも用いられます。つまり、多くのスタッフによってDCHの音声は制作されていますので、統一感があるサウンドとなるようにいつも注意を払っています。現在、DCHの音声は通常、バランスエンジニアを担当するトーンマイスターと、ディレクターを担当するトーンマイスターの2名で行っています(ラジオチームは5名)。そして、私たちは、ドルビーアトモスのライブ配信をするからといってスタッフを容易に増やすことは、経費的にも難しいわけです。そこで、私たちは、いわゆる「Stereo Plus」という、ステレオにアトモスのメインマイクを足す方法でミックスを行おうと計画しています。つまり、そのように行えば現状のスタッフにプラスして1人で、アップミックスでなく、ネイティブのドルビーアトモスでライブ配信ができるということとなります。具体的には、Studio 3でステレオミックスしたマルチトラック音声をDanteでStudio 7に送り、7.1.4chのモニター環境で聴きながら、リアルタイムにファインチューンするという方法です。

ベルリン・フィルハーモニー トーンマイスター マルコ・ブットゲライト氏


写真30 マルコ・ブットゲライト氏(Marco Buttgereit)

いつからベルリン・フィル・メディアで働いていますか?また、あなたの役割はなんでしょうか?

私はコンラート・ヴォルフ映画テレビ大学ポツダムで学び、2006年に、Diplom-Tonmeisterの学位を修め卒業しました。2002年よりフリーランサーとしてベルリン・フィルで働き始めました。2006年以来、ベルリン・フィル財団の職員としてフルタイムで働いています。また、2015年からは財団の音響部門の責任者を務めています。

何人のトーンマイスターがベルリン・フィルハーモニーで働いていますか?

私を含めて4人のトーンマイスターが在籍しています。

ステレオはどのようなメインマイクシステムを使用していますか?アトモスのメインマイクシステムはどのように準備していますか?

ステレオ用には、2つの全指向性Neumann KM130によるA-Bセットアップを使用しています。ほとんどの場合はこのセットアップですが、ラジオのチームが別のステレオシステム、例えば、写真にあるDPA 4006を使用することもあります。アトモスの場合、ホールにはLFEを除いてチャンネルごとに1つのマイクという固定セットアップがあります。L-RがNeumann KM130、Lss-RssとLsr-RsrがNeumann KM150、Topチャンネルは全てSchoeps(CCM41)です。Cのマイクがおかしな位置にあるのはわかっていますが、技術的には集音されるタイミングがL-Rより少し遅いので、非常にうまく機能しており、そのおかげでより広いステレオイメージが残されています。そして、ご想像のとおり、すべてのミックスにCを使用するわけではありません。たとえば、DCHは映画館にも中継していますが、そのライブミックスでは、センターchはほとんどスポットマイクの信号となります。

DCHのリスナーに何を感じていただきたいと思っていますか?

私たちはDCHのリスナーに、ホールでコンサートそのものを楽しんでいるような気分になって、そして、一方でモダンな音の美学のミックスを同時に楽しんでもらいたいと考えています。


写真31-33 ドルビーアトモス用メインマイクシステム


図6 ドルビーアトモス用メインマイクシステム

11. 終わりに

ライブコンサート配信の「醍醐味と芸術性」とは一体なんなのであろうか?私が考える「醍醐味」とは、そのコンサートの場に行くことができなくとも、今、この演奏をリアルに聴いているということを「錯覚できる」ということではないであろうか。そして、その「芸術性」とは、コンサート会場で聴くとは異なる何か特別な「音響的な体験」ができることではないであろうか。

私はこれまで15年に渡りDCHを観てきた。また、ベルリンに行く度に、ベルリン・フィルハーモニーでオーケストラコンサートを体験してきた。そして、DCHでベルリン・フィルのライブで観るとき、ベルリンのコンサート開始時間は日本時間の深夜であるが、その時間にライブで聴くと、この「今の時代」を生きる音楽家と観客、さらには、そのスタッフと時間を共有しているように「錯覚できる」と感じる。また、インタビューにあったように、配信では複数のマイクを用いることで、コンサートホールの雰囲気だけではなく、客席では到底聴くことができない、音楽を構成する様々な声部やアイデアを「音響的に体験」することができる。今後、ドルビーアトモスで生配信されるということは、それらがステレオよりもマスキングされることなく立体的に伝わるわけで、作曲者のアイデアである「音楽」をリスナーがより主観的に楽しめるようになるわけである。そして、その演奏家とリスナーを繋ぐ役割を担うのがトーンマイスターであることは言うまでもない。

今回、惜しみなく自身の実践や哲学について紹介いただいた各氏、ならびに、今回の取材のサポートをいただいたベルリン・フィル・メディアの日本広報担当の中村真人氏にあらためて感謝申し上げたい。次回は、Part 2としてネイティブミックスでのドルビーアトモス配信が始まった際に、またレポートさせていただく予定である。

取材協力:ベルリン・フィル・メディア(Berlin Phil Media GmbH)

参考文献

執筆者プロフィール

長江和哉(ながえ かずや)
名古屋芸術大学 音楽領域 サウンドメディア・コンポジションコース 准教授
1996年、名古屋芸術大学音楽学部声楽科卒業後、録音スタジオ勤務、番組制作会社勤務等を経て、2000年に録音制作会社を設立。2006年より名古屋芸術大学音楽学部音楽文化創造学科 専任講師、2014年より准教授。2012年4月から1年間、名古屋芸術大学海外研究員としてドイツ・ベルリンに滞在し、1949年からドイツの音楽大学で始まったトーンマイスターと呼ばれる、レコーディングプロデューサーとバランスエンジニアの両方の能力を持ったスペシャリストを養成する教育について調査し、現地のトーンマイスターとも交流を持ちながら様々な録音に参加し、クラシック音楽の録音手法を研究した。2018年、2022年、ベルリン芸術大学トーンマイスターコース、トースタン・ヴァイゲルト氏らとともに、オーケストラ楽器収録とピアノ収録におけるマイクアレンジ比較音源の制作を行い、楽器の放射特性を音として比較試聴できるWebページを制作し公開した。「飛騨高山ヴィルトーゾオーケストラ コンサート2013」が第21回日本プロ音楽録音賞 部門D 2chノンパッケージ最優秀賞、「情家みえ Save the Last Dance for Me」が第28回日本プロ音楽録音賞 Super Master Sound部門 最優秀賞を受賞。AES日本支部役員、Verband Deutscher Tonmeister会員。