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2023winter
アナログプレーヤーAP-0開発の軌跡
株式会社由紀精密 取締役社長 永松純
概要
オーディオ業界では全く知られていなかった神奈川県の中小企業である由紀精密が、2020年6月10日、初めてのアナログプレーヤー「AP-0」を開発したことを発表しました。開発責任者も設計エンジニアも全くの手探りからのスタートでした。どのような理想や信念を持ち完成まで至ったのか、AP-0に搭載された技術と合わせてご紹介したいと思います。
1. はじめに
2017年12月。開発部の端にある狭いスペースに、大坪社長(当時)をはじめ数名が集まっていました。「ふーん、そうきたか」、目の前にある装置を眺めながら大坪が呟きます。私は何と返して良いか分からないまま、「ひとまず、再生してみましょう」と、アームリフターを下ろしました。
由紀精密がゼロから開発したアナログプレーヤーの試作機が初めて音を奏でた瞬間です。立派な試聴室なんてありませんし、スピーカーも間に合わせです。それでもこの試作機は、開発したメンバーの理論と思いが集結した紛れもない、これから自社製品として花咲く、まさに「つぼみ」の状態でした。試聴環境が悪いとはいえ、音の傾向はこの時すでに明確に掴むことができました。ここにいた開発メンバー全員が、これが私たちのアナログプレーヤーなのだと強く認識することができたのです。しかしこの日はまだ開発の中間点。ここからさらに1年半の年月をかけて、AP-0を開発していくことになるのです。
2.自社製品の迷走
由紀精密は1950年創業の歴史ある企業で、精密部品加工や宇宙産業・医療向けの機器開発を行っています。
加工技術も設計の知見も、お客様の課題を解決するために使われるため、社内に蓄積することはありません。案件がひとつ終われば、また次の案件に着手していくというサイクルです。当時、私はこのサイクルを打開し、弊社の持てる技術を余すことなくつぎ込んだ製品、しかも進化を繰り返すことができる自社の独自製品を成立させたいと常々考えていました。そこで「“由紀精密”を冠する製品を製造したい」という思いから、或るプロジェクトを起こし、チャレンジしたのですが、残念ながら頓挫してしまいます。原因はいろいろとありますが、ここで気づいたのは、製品の魅力や期待を私がメンバーにしっかりと伝えきれておらず、メンバーにも迷いが生じてしまい、プロジェクト自体が失速していったのでした。
3. ターゲットはアナログプレーヤーへ
私は一度プロジェクトを停止し、再度思考を巡らしました。由紀精密の持つ得意な加工技術は旋削です。由紀精密の加工品は様々な業界で活躍していますが、精密機械時計をはじめ回転精度が要求される業界で重宝されています。また、作るからにはターゲットとするのは狭い業界ではなく、多くの方に楽しんでいただきたいですし、私自身がその仕様を理解しているものが良い。考えた末に可能性を感じたのがアナログプレーヤーでした。
できるだけ予算をかけず、水面下で開発を進行しました。レコード愛好家は厳しい耳を持っていますから、良い製品に仕上がらなくてはリリースしても価値がありません。そのため、プロジェクトの中止は常に頭に入れており、当時の大坪社長にも告げず、私の裁量の範囲内で行っていました。
業界のトレンドにも気を配りました。当時は今ほどとは考えもしませんでしたが、CDの販売数が徐々に減り、レコードが売れ始めているというニュースが聞かれるようになっていました。ここを皮切りにビジネス的な可能性を検証し、前向きなフォーキャストを検証することができましたが、それ以上に私自身が幼少期からレコードに親しんでおり身近な存在だったということが開発の後押しとなりました。
さらに大きかったのはメンバーに勢いがつき、開発に熱が入ってきたことでした。中心となって開発したのは若手のエンジニアでレコード世代ではありません。それにも関わらず古い文献を探して学び、私から出される仕様や希望が曖昧であっても理論的に要素分解し、それを実現する具体的な設計に切り替えていきます。レコードの再生に必要な要件を揃えることや新たに提案することにも正面から向き合うことができましたし、由紀精密は宇宙関連機器の開発をしているため、開発メンバーが筺体の剛性や固有振動数に対して敏感だったことが、開発を堅実なものとする決め手となりました。
少しずつ着実に形になり、不格好ながらも希望の要素を備えた由紀精密独自のアナログプレーヤー試作機が完成しました。そしていよいよ社長にも初めてこの試作機を見てもらうことになり、冒頭に述べた通り、大坪が「ふーん、そうきたか」と呟いた訳です。
4. 技術紹介
私たちの設計の特徴は、過去の名機で採用されてきた設計に捕らわれることなく、“レコードの溝から得られる情報を正確に取り出すとはどのような機械装置なのか”という命題と愚直に向き合い再考した点にあります。
以下に、採用した設計アイデアをご紹介します。
4-1 [マグネット式軸受け]
AP-0を特徴づけることとなる磁力保持型の軸受け構造です。レコードを乗せるプラッターはアルミ無垢材からの削り出しで約4kgあります。これを安定して回転させるためには剛性を持った軸受けが必要ですが、これがわずかにでも回転時に機械的な振動を持つと、ノイズやフラッターの要因となります。理想的には“何にも接していない”状態と考え、磁力による反発でラジアル荷重を受けることで非接触を実現しました。ただ、スラスト荷重はスピンドル底面に対してピボット点で受ける構造になっています。
4-2 [シンメトリーレイアウト糸ドライブ]
モータはブラシレスDCモータをフィードバック制御されています。これをケブラースレッドでプラッターに伝達していますが、試作機ではまだゴムでした。シンメトリーというのはプラッターに対してゴム(糸)を片掛けせず、モータの対称位置にプーリを配置しこれを介して伝達することで、スピンドルにラジアル負荷をかけない設計思想です。これは上記マグネット式軸受けと組み合わせることで偏心を防ぐ効果を発揮しますが、実は開発時の発想の順序は逆で、スピンドルへの長期運転時の負荷を減らすアイデアとしてこちらの方が先に提案されていました。
【写真5】スピンドルにラジアル負荷をかけないシンメトリー設計
4-3 [プラッター]
アルミ無垢材(A5052)削り出しのプラッターは、由紀精密の加工技術が活かされる部品のひとつです。通常、由紀精密ではφ300を超える旋盤加工は行いませんが、この製品は特殊な加工プロセスで内製しています。最外周の寸法精度も出ているため、レコードの淵を押さえる外周スタビライザー(オプション品)も容易に取り付けられる設計となっています。
4-4 [トーンアーム① ピュアストレート型]
様々なトーンアームが存在する中で、ステンレス製のピュアストレートアームを採用しました。固有値を回避したうえで、素材自身の重量、剛性、バランスなど考慮した結果、トラッキングエラーで不利となっても、それ以上の安定性が見込めるとの判断となりました。最終的には官能評価によりストレート型に結論付けました。
4-5 [トーンアーム② ニードルポイント・スタティックバランス]
ステンレスアームを支えているのは2本のニードルです。これも由紀精密の精密加工技術を応用した独特の支点構造となりました。ニードルを採用することで、理論的には全方位に対する位置精度を保つことができます。
4-6 [トーンアーム③ ヒステリシスブレーキ]
一般的なカンチレバーの動作はカートリッジ内のダンパーで受けることが想定されていると思いますが、当然アーム本体もこの微小な動作を受けることになります。これをアームのピボット点で受けて可動させてしまうと、逆にカンチレバーの動作に影響を及ぼし正しい情報が取れなくなります。これを防ぐ工夫は昔から行われてきましたが、私たちはメンテナンスフリーも意識し、マグネットを使用したヒステリシスブレーキを採用しました。この方式は産業装置では非接触ブレーキとして時々見ることがありますが、トーンアームに応用した例は過去にありません。ヒステリシスブレーキは構造が大きいのですが、アームのピボット直下にある支柱に格納されているため、外部からその存在感は感じられません。このような工夫もアームの性能を特徴づけています。
4-7 [スパイク式フット]
高周波の振動防止のため、プレーヤーの下にインシュレーターを敷く方もいらっしゃると思います。AP-0シリーズはフラットなフットに見えますが、内部に仕掛けがあり、接地すると点で立ちます。部品加工が社内でできることを強みに何度も試作を繰り返し、独特なフットとなりました。
5.試作機から製品へ
試作機は開発コストを抑えるため、アルミフレームや板金で作られました。抽出される音の方向性は期待通りでしたが、筐体の重心位置が悪く、それを支える各部品への負荷にばらつきがあるためか、安定性に欠ける印象を持ちました。そこで、製品化するときに気を付けたのは剛性の確保でした。
剛性を単に高めることは簡単ですが、アナログプレーヤーは自宅に置いて楽しむものですから、外観は重要です。このデザインについても外部委託することなく、社内のデザイナーが手がけることにしました。何度もディスカッションが重ねられ、配置すべき部品が存在しない筐体は空間として抜き、それを意匠とする思い切った構造となりました。
この構造は結果的に大変理にかなっており、上下のプレートで剛性を保つだけでなく、ハウリングへの対策にも寄与していると考えられます。機械設計とデザインとの往復は何度も繰り返され、時間もかかりましたが、これこそが、設計・部品加工・デザインの3部門が1つの企業で完結しているからこそ成しえたことです。こうして、当初目指していた“由紀精密の名前を冠する”製品が完成していきました。
このアナログプレーヤーはAP-0と名付けられました。しかし私たち由紀精密はオーディオ業界とは無縁なうえ、当時はコロナの流行による展示会の中止も相次ぎ、ウェブサイト上で細々とリリースしました。このような中でも数年かけて少しずつ皆様に知っていただく機会に恵まれ、業界の関係者との出会いも重なり、具体的なアドバイスをいただくこともできました。右も左も分からない中で突き進んできた私たちにとって、オーディオ業界に温かく迎え入れていただいたことは本当に感謝の言葉が尽きない思いです。
6.AP-0が存在する意味
よく皆さんから「AP-0はどのような音を目指しているのですか?」と聞かれます。これは非常に緊張する質問ですが、私としては、アナログプレーヤーはレコードの溝に刻まれた情報を、外乱の影響を受けることなく忠実に取り出すための精密機器であるべきと考えています。こうして抽出されたデータのみが結果として特徴づけられた音を奏でることができると思っており、これがAP-0シリーズの目指す音なのです。一般には音の表現は様々で、クリアな音や力強い音、繊細であったり艶やかであったり、私もオーディオ愛好家の一人ですから、好みの音があります。AP-0シリーズは私の好みの音に近付けようとしているわけではなく、ただただ愚直に理論的な正しさを求め、構成する各部品の必要な精度を守って製作されています。由紀精密が投入できる技術をほぼ全力でつぎ込んだ製品ですので、ひとつの完成形を成しえたと考えています。ですから、次号機AP-01、その次のAP-02とブラッシュアップをしていくことになるのかもしれませんが、恐らく大きくこの設計思想が変わっていくことはありません。これは、妥協点を残したままリリースしないという由紀精密のエンジニアが守るべき姿勢を、AP-0シリーズとして重ね合わせたいという希望のようなものの表現でもあります。
7.レコードを愛する皆様へ
ここまでAP-0について書いてきましたが、音楽を楽しむ皆様の大切な時間を、より豊かなものにしたい、という気持ち。どのアナログプレーヤーメーカーもこの気持ちは同じだと思います。お持ちになる製品が何であっても、その製品には設計者の期待、製造者の想いが詰まっています。本稿を読んでくださった皆様が改めて製品に触れ、そこに関わったエンジニアを思い浮かべていただければ嬉しく思います。そうすれば普段聴きなれているレコード、聴きなれているプレーヤーであっても、また違った楽しさを感じられるのではないでしょうか。
8.謝辞
最後に、いつも由紀精密を気にかけてくださる株式会社中電の齋藤社長、惜しみなく温かいアドバイスを下さるサエクコマース株式会社の北澤社長、いつもありがとうございます。また、本稿への貴重な機会を下さった日本オーディオ協会関係者の皆様、そしてアナログプレーヤーAP-0の開発製造に妥協せず取り組んでくれた由紀精密の社員の皆さん、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。
執筆者プロフィール
- 永松純(ながまつ じゅん)
青山学院院大学大学院理工学研究科物理学専攻博士前期課程修了。その後、株式会社インクスの研究開発部門、株式会社ディスコ(半導体製造装置)の技術開発部門を経て、2014年より株式会社由紀精密に入社。開発部長、技術開発事業部長を歴任。学生時代に金属系としては最高温で超伝導転移する物質MgB₂を発見し英科学雑誌「Nature」に論文を投稿。2002年に超伝導科学技術賞を受賞。趣味はオーディオとクラシック音楽鑑賞。大分県出身。