日本オーディオ協会 創立70周年記念号2022autumn

日本オーディオ協会 創立70周年に想う

日本オーディオ協会 前・会長 校條亮治

日本オーディオ協会創立70周年、おめでとうございます。

先人の方々の大変な努力で創立70周年を迎えることが出来たことを、会員の皆様はもちろんのこと、関係者の皆様と共に喜びたいと思います。そして、70年という長い歴史の一コマに携わらせていただいた一人として、記念すべき「JASジャーナル 協会創立70周年記念号」に寄稿をさせていただくことを、大変光栄に思います。大いに感謝を申し上げます。久し振りの寄稿ですので少し私事も交えてお話をさせていただきます

皆様の中には、私が技術屋ではないので、オーディオについて疎いと思っている方もおられるのではないでしょうか。実は私とオーディオの関わりは工作少年の時代に、行き着いたところがオーディオだったということがありました。当時誰もが経験した様に、小学生で作った「ゲルマニウム・ラジオ」、そして「スパイラルコイル」をいろいろ自作して実験をしたこと。兄から貰った手回し式蓄音機のターンテーブルでどうやって音を出すのかをいじくっていたこと。またSF本から宇宙に対する興味を持ったこと、そんなことが思い出されます。

しかし、何と言っても忘れられないのは、中学生の時にNHKが放送したAM2波による「立体音響」放送ではないかと思います。曲名こそ忘れましたがクラシック音楽で「立体音響」なるものがこれほどまでにすごいのかと、大きな感動を覚えました。これは機種も違う5球スーパーラジオの2台を田舎間8畳の両隅に置いてアナウンサーの指示により左右、センターの音量を調整して聴いた覚えがあります。既にこの頃は両兄の影響も有って私もラジオ、アンプの自作もやっていました。当時は真空管式のST管(42等)、GT管(6V6等)、ミニチュア管(6BM8等)を用いたアンプをよく友達にも作っていました。

オーディオにのめり込んだきっかけとしてはもうひとつあります。当時日立が展開していた「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」のステレオコンサートを兄と聞きに行ったことです。都会では既にステレオなる商品が販売されていたでしょうが、田舎ではまだ目につくことはありませんでした。満員の市民会館でのコンサートのイベントで「イントロクイズ」があり、賞品を貰いましたが、その時の楽曲が米国の「リトルペギーマーチ」の「I Will Follow Him」だったことを今でもよく覚えています。このふたつが私とオーディオを繋いだと思っています。

小学、中学、高校時代は、オーディオに限らず、いろいろと工夫した工作をたくさんしました。代表的なものを挙げますと「長距離水鉄砲」、「1円玉電池」、「ポータブル扇風機」、「手回し発電式懐中電灯」、「AM送信機」、「トランシーバー」、「天体望遠鏡」、「バイクエンジンのオーバーホール」、「残響付加型アンプ」、「f0 30Hz密閉型エンクロジャー」などです。

さて、本題に入りましょう。その後もオーディオに興味を持ち続けた私は、中途採用で昭和41年にパイオニアに入社しました。仕事はサービスとして日々ステレオの修理と顧客を訪問、ステレオコンサートの開催、市場開拓など多岐にわたりましたが、とても充実していました。時は下り、営業への転向、本社勤務、労働組合専従委員長などを経て経営革新、国内マーケティング会社社長を担当。この時に日本オーディオ協会の副会長に就任しました。一年後に会長、その二年後には専務理事兼務となり協会の運営に専念することになります。

私が協会を担うことになった一因は、副会長の時に協会運営に関する問題意識を提起したことが、当時の鹿井会長と藤本専務理事の目に留まったのではないかと思います。オーディオ市場は、既に全盛時とは比べるまでもなく縮小していました。特に会員企業が得意とする「据置型ホームオーディオ」ではなく「携帯型パーソナルオーディオ」が全盛となっていました。これにより、展示会も縮小の一途を続け、赤字状況でした。

私の使命はオーディオ協会自体の再建であったと思います。したがって、鹿井会長の考えは従来型の協会運営ではなく、マーケティング視点で新しい日本オーディオ協会を目指してもらえないかとのことで、「敢えて技術者ではない君に後を委ねたい」ことと、「年齢的にも最低数年はできるよね」と言われ、当然、私もすでに組織の一員でしたからパイオニアの経営者と相談したうえで、応じたことを思い出します。これには後から分かったことですが、ソニー出身の理事であった森芳久氏が私の後見人として影から面倒を見るというオチがあったと、生前の森さんが明かしています。

ここで、森さんについて少し話しておきましょう。森さんは「音の日」発足以来、委員長を担当され、「音の匠」の選考委員長でもありました。当初は私とよくぶつかることがありましたが、そのうち馬が合うようになり、「音の匠」の発掘をして、候補者との面談に二人で出かける様になりました。その時点では「音の匠」候補者だということは相手に黙って、JASジャーナル掲載へのインタビューという触れ込みで話に伺いました。森さんは結構インタビューが上手かったので、もっぱら進行、私が筆記という役割でした。こんなコンビで、時に森さんが私に「君、今のところがポイントだからしっかり書いたか!」ととぼけたり、私もそれに乗って「ハイ、先生!」と合いの手を入れたり……。そんな掛け合いをしながら和気あいあいとした雰囲気の中でインタビューをしたことを思い出します。

話を戻しましょう。後から思えば鹿井会長としては私のような門外漢の方が再建業務には向いていると読まれたのではないかと思っています。協会再建といっても、どこから着手してよいのやらまったく分かりませんでした。それはそのはずで、副会長は専従ではないので外から垣間見た程度の認識でした。これでよくも問題提起したものだと赤恥ものでした。まずは徹底して日本オーディオ協会の生い立ちと組織状況、活動経歴をJASジャーナル他から読み込み、決算と財政状況については過去からの総会議案書、決算書類の把握に努め課題の抽出を行いました。赤字の原因は収支バランスに欠ける支出過多ということから、「賀詞交歓会」の中止や人件費の見直しなど、少々手荒いことも行いました。

一方、オーディオ協会が目指すべき方向を確定させる必要がありましたが、これにはパイオニア時代に推進した経営革新が大いに役立ちました。事務局全員による合宿スタイルで場所も変えて、(1)目指すべきビジョン、(2)具体的目標、(3)戦略、(4)戦術等を話し合いました。企業でもないので参加者一同、この様な活動は初めての様子で戸惑いがあったことは否めません。この結果、協会のポジションを大きく変えることを確認し、公益法人から一般社団法人への変更を決意しました。もちろん、この決定は定款変更を伴ない、理事会承認の取り付けと総会決議事案として大きく踏み出すことになりました。しかも、この作業は経費も掛けられず、すべて自前で行う覚悟をし、改正民法を首っ引きで調べ、経済産業省への説明と内諾と、私も携わったこともない内容ばかりでした。会員企業の動向確認とヒアリング、収入予算の試算、新定款条文の作成等を柚賀事務局長と二人で苦労しながら、最後は冷や汗まで出しながら進めたことが今では懐かしく思い出されます。

協会再建は緒に就いたばかりで実質的に新協会として新しい事業計画と実行をしなければ意味がありません。ここでは理事会を総動員して「中期事業計画の策定と推進」すべき課題に対する委員会、プロジェクト活動を進めました。特に加藤副会長をヘッドに「中期事業計画」を策定して、具体的な活動の方向性を明確にしました。

これに基づく具体的な事例を挙げますと「デジタル伝送系の音質改善」に着手したことが挙げられます。その当時、携帯電話の着メロの音質強化は将来展望を考えた時、喫緊の課題であると認識し「MAPI(モバイル・オーディオ・プロモーション・イニシアティブ)」の設置をしました。

これは、従来のオーディオ協会の枠組みを超える活動で、通信キャリア等で構成される一般社団法人MCPC(モバイルコンピューティング推進コンソーシアム)や自動車メーカー等で構成される一般社団法人JASPER(Japan Automotive Software Platform and Architecture)などと共同して、実際に携帯電話の音質測定とメーカーへの改善指導や勧告まで行いました。さらにデジタル伝送系の課題提起も行いました。まさに蟻が象に噛みつく様なものでしたがその後の活動を大いに触発したと思います。

CDが導入されてから30年以上の時間が過ぎた2010年代、協会としては何らかの次の一手の必要性に駆られていました。SACDやDVDオーディオなどディスクメディアは高音質化の道を歩んでいましたが、行き詰っていたことは事実でした。そんな折、「ハイレゾ・オーディオ」なるデジタル・オーディオファイル再生の高品位化に市場が静かに動き始めます。私は「ハイレゾオーディオ」の可能性を確信し、「ハイレゾオーディオに関する会長指針」を理事会に提起しました。ソフト業界に対しても大きな波紋を起こすことになりますが、信念を変えることはありませんでした。ソニーの全面支援を受け、「ハイレゾオーディオ」ロゴの商標権を無償譲渡していただき、会員企業がこのロゴによるプロモーションを一気に行うことで、世界市場に向けて動き出すことになりました。半年後にはCTA(全米家電協会)とのパートナーシップ契約を締結するなど、世界基準の運用が開始されました。まさに走りながら山ほどの課題に取り組み、定義の拡張、登録システム、チェック体制の構築など、休む間もありませんでした。


2014年に運用し始めた「ハイレゾオーディオ」のロゴ

駆け足で私が会長を担当した10年ばかりの協会再建の道をお話してきましたが、当初の鹿井会長と藤本専務が私に目論まれたことは大筋で何とか進められたと思っています。しかし、後見役の森芳久さんにとっては気が気でなかったかもしれません。この間、「オーディオの火を消すな」と励まし続けていただいた元監事の坊上さんと元副会長の平林さん、そして大きな示唆をいただいた元会長の中島平太郎さんに心から感謝を致します。さらに事務局の皆さんや当時の理事さん、あるいはソフト業界や録音業界の皆様にも大きな感謝をしなければなりません。

私が進めてきた事案を振り返ると、音源の主流は配信というノンパッケージに移り、市場はハイレゾオーディオ対応で高音質化がされ、大きく成長しました。一方でハイレゾオーディオへのアンチテーゼとしてアナログレコードの復活を呼び起こしました。そして今年の「OTOTEN2022」では、話題の中心は立体音響化へと歩みだしています。小川現会長による体制になっても、ますます市場を活性化させるチャレンジが続いており、私も静かに応援しております。私にとっては「ゲルマニウム・ラジオ」からスタートしたオーディオの興味ですが、さて日本オーディオ協会創立100年の頃はどんな夢が花開いているのでしょうか。さまざまな期待を寄せながら、筆を置かせていただきます。

執筆者プロフィール

校條亮治(めんじょう りょうじ)
日本オーディオ協会 前・会長
1947年、岐阜県生まれ。2005年、パイオニアマーケティング株式会社代表取締役社長就任。2008年、日本オーディオ協会会長に就任、2018年に会長を退任し、特別顧問へ。2020年、特別顧問を退任。